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ワンダーFULL TOKACHI File.24 地上のミルキーウェイ

yukuepiratop

史跡 ユクエピラチャシ跡(陸別町)

 

陸別町市街を見下ろす高台にあるユクエピラチャシ

街を見下ろす高台にあるチャシですが、季節が進み緑が溢れ出す今頃は、街からその姿をハッキリと確認することはできない。

しかしその地へ設けられた園路からその砦へ向かうと、開けた見通しの先にそれはあった。

自然の中に溶け込みながら異彩を放つ…それでいて過大な自己主張はないのだ。

この景観には何か特別なものを感じる…

一説には砦 または狩場、祭礼場。あるいは人の争いを神々が静かに傍観する聖域。

その名前は決して神々しいものなどではなくエゾシカ(ユク)の名を携えているだけなのだ。

であるが、この大地に有るものは全て神々より施されたもので神そのものなのです。

少なくとも、そう信じた神に一方では翻弄され、助けられ、癒されてきた。

そうした恐れ多い存在に対し、むしろ我が身を晒すように築いた目印が「チャシ」なのではないかと

ふっ…と、思ったりしたわけです。

 

チャシコツから望む陸別市街

 

チャシとは?

“チャシ”は近年までは考古学の研究対象ではなかったそうだ。

一端には、松浦武四郎チャシの建造そのものが、どちらかと言えば近世よりの性格が強く研究対象の認識が浅く調査に遅れがあったことがある。

しかし、江戸時代に記された北海道に関する古事録にも「チャシコツ」の存在は登場し、「十勝日誌」を記した松浦武四郎も一部に記録したるものもあるそうだ。

用途は諸説あるが、主に「砦」であったとされている。

他にも聖域、祭事場、談合の場、見張り場…そのどれもが正しくもあり、間違いでもあるように思える。

A壕とC壕の交差箇所

小高い丘や崖の見通しの良い高台部分に壕を築き、造成時には塀も築かれていた痕跡も見られていたというが、現在は壕(窪地)だけが残されているだけであるため、「チャシコツ(コツ=谷間、窪地の意味)」と言うのが正しいとされている。
よって、現在では「チャシ」ではなく「チャシ跡」と説明されています。

北海道には先史時代の中の区分に「擦文文化」と言われる時代があり、これがおよそ13~14世紀頃に終末を迎えたとされています。

そして和人(本土の日本人)の文献として「チャシ」の記録が見られるのが17~19世紀。

しかしこの時点で「チャシ」は「チャシコツ」と記録されている。すなわち“既にチャシでは無くチャシの跡”となったと文献は記録しているわけです。

擦文時代からアイヌ文化に至るまでの空白期間。その頃に大いに築かれた「チャシ」がその謎を解き明かす鍵と言われているのです。

 

チャシは、アイヌ文化期(13~18世紀の間)に高台の突端などに築かれ、確認されているだけでも道内には500を超えるチャシ跡があり、主に北海道東部の河川や湖沼、海岸沿いに多く分布している。十勝地域においては70箇所が確認されており、その分布は十勝川中流域、利別川沿い、旧利別川左岸、十勝川下流域のグループに分けられるほか、「史跡オタフンベチャシ(浦幌町・直別)」のように太平洋岸に立地するものもある。

用途が文献として残されていない背景には、アイヌ文化が文字を使用せず口頭による継承が主で、伝承などにチャシが盛り込まれててもチャシそのものが語られていなかったこと。言い伝えによるチャシの意義が「砦」であったり「祭場」であったりと差を生じていること。

予め用途は決められていたにせよ、時代の移り変わりでチャシの意義に変化が生じたかもしれないということも曖昧さにつながっているのかもしれません。
砦、祭事場、チャランケ(談判※)の場…等々 いずれにしてもチャシは地形を利用しつつ人為的な造作を施したものに他ならない。

※アイヌ社会における秩序維持の方法。集落相互または集落内の個人間に古来の社会秩序(おきて)に反する行為があった場合、その行為の発見者が違反者に対して行うもの。違反が確定すれば償いなどを行ない、失われた秩序・状態の回復を図った。
─文献による「チャランケ」は、押し問答で相手をやり込めて家宝や土地等を奪い取るというような印象もあり、雄弁な者が優位にはたらいていたためか、後の時代、政府により禁止措置が取られた。陸別に伝わる英雄『カネラン』もまた、持って生まれた雄弁さで行く先々において「チャランケ」で宝物を取り上げていたが、後の失敗に改心し、コタンの長にふさわしい人となったという。

史跡入口

 

ユクエピラチャシ跡

陸別町には現在までに12箇所のチャシが確認され、利別川沿いグループの最上流に分布している。
町内にあるチャシはさらに大きく4つのグループに分類されている。

①足寄町と接する南側のグループ
②町の中心部から約2㎞南のに並ぶグループ
③町の中心部付近のグループ
④町の中心部から北へ5.5㎞の最上流域のグループ

見取り図チャシの形状は様々で、壕が2条になるもの、壕が直線状、壕の深さや幅などが異なる等、ルールが用いられるというより元の地形を考慮に入れて作られたとも考えられます。

「ユクエピラチャシ」はこのグループの中の④に属し、市街地を見下ろせる位置にありました。
構造は3つの郭(くるわ)が連結した複雑な形態で、規模は盛土部分を含め長軸128m、短軸48m。およそ450年前(室町時代末期から江戸時代初期頃)に作られた北海道内最大級のチャシ跡。
「ユクエピラ」とはアイヌ語の ユク・エ・ピラ(エゾ鹿・食べる・崖)から成り、『シカが餌を食べる崖』あるいは『エゾ鹿を食べる崖』の意味となります。あるいは単純に『エゾ鹿のいる崖』とする説もあります。
近年の発掘調査で大量のシカの骨が出土していることからエゾ鹿を捕獲し、実際にこの場で食していたとされている。

C郭突端の関寛斎碑ユクエピラチャシのある山は、陸別町開拓の祖、関寛斎(せきかんさい 1830-1912)が入植し、自ら『青龍山』と名付け、好んで散策した所であったという。寛斎は、このチャシを重要な史跡と考え、保存に努めていたという逸話もある。陸別開拓史上でも重要とされるこの地には寛斎の業績を讃える顕彰碑と関神社が置かれており、チャシそのものより関斎の碑がある場所という認知の方が強くなっているようです。
(関寛斎が入地し、牧場を開いたのはこのチャシより斗満川を挟んだ南西700mに位置している。チャシの地は寛斎の息子の又一に同行した片山八重蔵の居住地であったという。齢70にして北海道開拓に奮起した関斎は、チャシ跡の上から急速に発展していく陸別の街を見下ろして満足していたのかもしれません)

史跡ユクエピラチャシ跡は、1975(昭和50)年4月1日、陸別町文化財指定を受け、同年11月22日に北海道文化財指定を経て、1987(昭和62)年9月8日に国の史跡に認定されました。

しかし、このチャシ跡がある利別川沿い右岸は極曲地点にあり、崩落の危険性(実際、このチャシ跡は、原型の半分以上が崩落で失われている)があるため、陸別町教育委員会は、1992(平成4)年、史跡用地の購入を進めるとともに崖面の工事測量調査を行い、翌1993年より保護工事を施工。
1997(平成9)年には「保存管理構想検討専門規則」を制定し、町外の学識経験者を交えた遺跡管理方針を検討。「保存管理構想報告書」にまとめる。
1999(平成11)年、構想の具体化に向け基本計画策定に着手。同時に基礎資料収集を目的とした現地試掘調査を行い、併せて地形測量を行う。

保存計画整備基本方針は8つの項目からなる。

①遺構周辺の歴史的環境および自然環境の保全を第一とする
②考古学、民族・文献資料調査等の研究成果に基づき保存整備計画を検討する
③保存整備にあたり、郭壕、盛土等の発掘調査を継続し、計画に盛り込む
④発掘調査後は遺跡保全のため、早期に埋め戻した後に整備する
⑤保存整備後の公開、活用を検討する
⑥保存整備関連事業として、来訪者へのサービスを目的とした設備計画やサイン(案内板)等の計画を検討する
⑦道内のチャシや関寛斎資料館の展示内容とも連関するような保存整備とし、来訪者の再来を促すような計画を検討する
⑧史跡チャシ跡と町指定文化財関寛斎翁碑並びに関神社跡の整備方法については双方の望ましいあり方を検討する

B壕からC壕方向2002年~2008年(平成14~20年)に及ぶ事業(発掘・整備)により史跡ユクエピラチャシ跡はおおよその復元を見せることになります。
調査の過程で分かったのは、このチャシは珍しい『白いチャシ』であったことでした。
壕を掘り上げた際に出た火山灰とロームを壕の外へ丁寧に盛り上げたことで周囲から浮き上がるような特殊な景観に仕上げられました。(この復元作業には多くの町民ボランティアの協力がありました)

遺跡からは10万点に及ぶ遺物が確認。その多くは「ユクエピラ」の名にふさわしく8割がエゾ鹿の骨。他にも刀などの鉄器・銅製品、ガラス玉、陶磁器、銭貨が出土。
史跡表、説サインボードのほか、新たにチャシ跡を見渡せるビューポイントが設けられ、史跡までを結ぶ園路は柔らかい木材チップが敷き詰められ、チャシ跡は時代を超えて陸別の空の下で輝きを取り戻しました。

 

初夏のユクエピラチャシコツ

 

史跡ユクエピラチャシ跡へ行ってみよう

整備事業が完了して7年。ユクエピラは初めて訪れます。

草刈などをこまめに行い、整備されたビューポイントに始め、ゴルフ場へ来たような感覚になります。

(遠望で見た白いチャシはバンカーに見えなくも無いw)

 

チャシコツ内部へ入って見ると、敷き詰められた山灰のせいか、日本庭園風というか環境アートの雰囲気もありました。

道の駅りくべつ前の温度計が32℃に達したそのころ、ユクエピラチャシコツの木陰は大変涼しく気持ちの良いものでした。

静かな空間。聞こえるのは「りくべつ鉄道」の警笛…

「うーん…悪くないな…わるくない」

街が発展してゆく様子をここから眺めた関寛斎もそんな気持ちでここに経ったのかもしれません。

B壕

「史跡ユクエピラチャシ跡」道の駅から車でゆっくり走って10分程度の場所にある。

足寄方向へ国道242号線(通称:陸別国道)を進み途中から接合する道道502号線へ。

山際が近づくと間もなく道道502号線は左折しますが、そのまま道道を離れ、細い舗装の道を直進します。(この辺りで史跡への順路案内板が掲げられています。(道道対向車に注意)

A壕史跡への入口は砂利敷きで若干ダートのある道になりますが、登りきるとキレイに雑草を刈ってある駐車場があります。(要施錠)

すぐに指標と案内板が見えてその先にある芝の扇状地の先にユクエピラが現れる。

季節によりチャシ跡の景観は様々に変わりますが、左の園路からチャシ跡のところまで行くことが可能。チャシ跡内部に入ることもできます。(車両進入は不可)

ユクエピラチャシは、関寛斎の顕彰碑や関神社も建立されており、陸別市街の展望地としての側面もある。

当然チャシコツへも入ることは可能なのですが、遺構を傷つけたり、ゴミを残したり等なされませんように。

 

星降る里 陸別の夏空の下、白いチャシ跡の白さが照り返す光は、地上に降りた天の川のように  また冬のオーロラのようにさえ思えるのかもしれません。

 

【参考文献】

『アイヌのチャシとその世界』  北海道チャシ学会編北海道出版企画センター  平成6年6月10日発行

『陸別町史(通史編)』  陸別町役場広聴広報町史編さん室  平成6年3月1日発行

『史跡ユクエピラチャシ跡 平成14-20年度整備事業報告書』  陸別町教育委員会  平成21年3月27日発行

観光パンフレット『史跡ユクエピラチャシ跡』  陸別町教育委員会

 

陸別町のTONxTONスポット

●関寛斎資料館

関寛斎

関寛斎は『陸別町の開拓の祖』という知識しかありませんでしたが、実は幕末から明治時代の医学を担ったともいえる蘭方医です。

この時代が好きな方には思った以上に楽しめる展示室です。

 

●道の駅オーロラタウンりくべつ

道の駅

『しばれ』の町陸別ですが、盆地状の地形なので夏はそこそこ暑くなります。ソフトクリームが美味しい!

陸別のキャラしばれ君、つららちゃんグッズも人気。

 

●ふるさと銀河線りくべつ鉄道

往年の姿そのままに走るふるさと銀河線の車両。

この鉄道は癒しの路線なのです。

 

●銀河の森天文台

星降る里『陸別』は1997年度(平成9)「星空にやさしい街10選」に認定。夜の星の存在感に圧倒されます。

天文台の日本最大規模の口径115cm の反射望遠鏡で見る星空は最高!

 

●Aコープ りくべつ店

アットホームな雰囲気の地元で愛されるお店。

銀河の森コテージ利用の際の買い出しに大変便利です。(9:30〜18:30 日曜定休)


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ワンダーFULL TOKACHI File.23 花の小径

フシコベツトップ

フシコベツ花の小径(帯広市)

 

帯広市内、国道38号線から北側。住宅街の中を縦横無尽に走る細い道がある。

道の名は『フシコベツ花の小径』

幹線道に分断されながらも西へ向かって続く小径。

通勤時によく見かける入口(?)から先を望むとカーブや緩い傾斜の敷石畳が続き、建物の間をひたすら自由に延長している様子が伺える。

区画が碁盤の目のように整った帯広市内の道とは異なるおもむきで、歩道用の道ではあるが、通学路専用という様子ではない。

通勤の道すがら気になっていたこの道を自分の足で歩いてみた。

どこから始まり、どこまで続くのか

先が見えないながらワクワクする道。

その起点を探すことから始めました。

起点

始まりらしいところは、啓北小学校裏手の伏古別川。小径の名前もフシコベツだからここが起点と思われる。

川の中には人が渡れるように(橋も近くにありますが)飛び石が置かれており、向こう側は校庭と川の間の川沿いの道に変わりますが、はじまりは、やはり「伏古別川」からが正しいと思う。

フシコベツ02

そこから道は、カーブを描きながらクネクネと曲がり、次は直線になる。規則性があるようで無い。

その道筋の意図に不思議な感じがする。

たぶんカーブの連続を作ることにより自転車がスピードを出しすぎないようにとの考えだろうか…。

フシコベツ03

ほどなく幹線道(北4丁目~5丁目間)を横断。(横断注意)

始めの『フシコベツ花の小径』の表示を確認。

 住宅街の中を続く小径なので、密集しているようですが高い建物は少なく開放感がある。

フシコベツ05

幹線道からは見えない一般のお宅の庭先を縫うように道があるので、ホッとする独特な景観。小径の両側…いや、道だけではなく各家々の庭も一帯となっているようだ。

それは沿線の庭が良く手入れされているということです。この頃のオープンガーデンといった公開式の庭が流行る以前から、ここはオープンガーデンと言っても良い区間だったのでしょう。

フシコベツ06

小径と庭の一体感。季節により花も変わる。この彩りが変化してゆく眺めは爽快でウォーキングにも最適。

むしろ利用しないのはもったいないw

玄武通交差点

道はやがて玄武通通り、チョマトー沼の北側交差点と交差し、さらに南西へと向かう。(信号有り)

向こうへ渡った先は、しばらく公共施設・企業施設などが続き、管理が行き届いているとは言えませんが、眺望と路そのものは、しっかりと十勝路の眺めを演出するがごとし直線が続いている。

フシコベツ09

やがて小径は再び住宅街の中を縫うように続き…でも小径の様子は変わってきました。

レンガの路は、コンクリートの石畳に変わってきた。(景観も少々閑散としてくる)

フシコベツ08

ここで大問題!

「路が消えた…」

報和通り(西16条~17条間)を横断する手前から小径は途切れるように消えていた。

「あれ…? この小径は、こんなものでは無かったはず…」

幹線から見た小径の反対側からすると「フシコベツ花の小径」は、まだ西へ続いていたはずです。

付近を探して歩くも延長部は確認できず。(後で地図で確認したところ、この付近で小径はたしかに消失している)

フシコベツ10

やむなく、確認済みの栄小学校北側を通る小径の延長へ。

この延長も『フシコベツ花の小径』の表示があるので小径の一部に間違いない。

花の小径の名ににふさわしい景観が戻ったところで右手側にコンクリートブロックの擁壁(ようへき)が眺めに加わってきた。右手側と左手側の土地では高低差があるようです。

フシコベツ11

ほどなく道は帯広北新道(フロンティア通・国道241号線 西17~18条間)へ

フロンティア通へ

先は大きな道に阻まれて行き止まりとなっていたようです。

「ここで小径は終わりなのか…」

そう思いつつ、フロンティア通りの対岸を捜索することに。

はくゆう公園

ところが向こう側にあったのは小径ではなく、「はくゆう公園」。

小径は公園に姿を変えたようです。

フシコベツ14

でも公園の一部に痕跡を見かけた。あれは対岸で見たコンクリート製の擁壁と似た物だw

跡を辿ると細長い公園の先に小径の延長を発見。

フシコベツ13

しかし小径はまたも阻まれて工場団地に突き当たることに…。

フシコベツ15

向こう側への延長を求めましたが確認できませんでした。

どうやらここまでが「フシコベツ花の小径」の全体のようです。

それにしてもこの小径の順路は、どのように形成されたのでしょうか?

その経緯を帯広市史、都市計画資料等で探してみましたが的確な答えは見いだせませんでした。

フシコベツ04

その答えを教えてくれたのが小径沿いのお宅で花の手入れをしていた方です。

「この道は、昔小さな川だったんですよ。ほとんど水は流れない事もあるほど小さな流れだったんですけどね…」

この小径は、もと小川だった─。

あらかじめここに存在していた川だったので、沿線の家々は川に沿って立ち並び、川から置き換えられた小径は家並の間を自由に走る道のように感じていたのです。

現在の小径を川筋とすると、その距離はウォーキングカウンターの合計では、約1.5㌔。

小径は伏古別川に注ぐ短い小さな支流が変じた姿だったということになる。

それにしても驚くほど短い川だったようです。

果たして、その川に名前はあったのでしょうか。

流れが消えることも途切れることもあった川─。

 

もうひとつ奇妙に思えたこと─

「フシコベツ花の小径」の基点(川としては合流点)になる伏古別川。

その起点は現在の地図で確認すると17条あたりで消失していますが、実際にその川筋はその辺りで消失している。

でも、流れはあるのです。(十勝川の堤防に阻まれているが十勝川の伏流水が流れ込んでいるのかも)

古い時代、十勝川は帯広市内沿いのあたりも良く氾濫し、場合によっては国道38号線辺りまで水が迫ったこともあったといいます。

市内を流れる別の川、「ウツベツ川」もその名前は「肋骨のように枝分かれした川」の意味を持っている。

そうした川のひとつがこの「小径の川」なのかもしれません。

フシコベツlast

 

水が枯れた川

水は確かに枯れてしまいましたが、花が流れのように広がり、その流れを愛でるように人もせせらぎのように行き来しているのです。


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本別の宝

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キレイマメ』と義経伝説の町、本別町。

源義経(みなもとのよしつね)は平安時代の武将。兄の源頼朝に追われて岩手県奥州市で自害したとされていますが、実は生き延 びており、津軽海峡を渡り蝦夷地(北海道)に入ったという伝説が数多く残されています。

この十勝管内でも大樹町・中札内村・豊頃町、そして本別町に伝説が残されている。

荒唐無稽な言い伝えの拡散ともとられてしまいますが、鎌倉時代の辺りから義経の生存説とされる言い伝えも少なくなく、北海道においても義経を思わせるアイヌ民話なども残されており、史実が果たして真実なのか?と思ってしまうこともあります。

さて、義経は本当にモンゴルまで渡ったのでしょうか?

 

 

本別町は1年の寒暖差の大きい町で、この風土が特産の豆を最上のものに仕上げる。

マメといっても様々な種類があり、輝く豆粒は、まるで宝石のように見えてきます。それに何とも種類が多いことに驚かされます。

 

もうひとつ キラキラと輝きはしないけれど

怪しく光る不思議な光景が『義経の郷 本別公園』にありました。

 

それが『ヒカリゴケ』

kanban

 

主に北半球に分布し、日本では北海道と本州の中部地方以北。日本国外ではロシア極東部やヨーロッパ北部、北アメリカなどの冷涼な地域に広く分布している。洞窟や岩陰、倒木の陰などの暗く湿った環境を好み日本の自生地にはマッカウス洞窟(羅臼町)、長野県佐久市や光前寺(長野県駒ヶ根市)、群馬県嬬恋村(浅間山溶岩樹型)、吉見百穴(埼玉県)、北の丸公園(東京都)などがある。

hokora

 

洞窟の暗がりの中で鈍いながらも存在感のある緑色の輝きを出すこのヒカリゴケは、自ら発光しているわけではない。

原糸体にあるレンズ状の細胞が外から入ってくる僅かな光を反射することによって起こる。

このレンズ状細胞には葉緑体が多量にあるため反射してくる光は金緑色(エメラルド色)になる。

十勝管内でも生息地が新たに発見されることがありますが、有名な羅臼のヒカリゴケも環境の変化などによって減少傾向にあり、日本では環境省により、レッドリスト準絶滅危惧の指定を受けている。

このヒカリゴケは、本別町の天然記念物に指定されています。

hikarigoke

本別公園内にあるこの洞穴は、天然のものではなく戦時中の防空壕。

厳密には軍事物資・弾薬などを隠すためのもので掩体壕(えんたいごう)【掩体、掩蔽壕(えんぺいごう)とも】と呼ばれるものに属する。

本別公園の山肌には多くの壕が掘られていたそうですが、ヒカリゴケが確認されているところはここだけのようです。

場所は本別公園内、義経と弁慶像のある『義経の館』前を走る道(道道658)の向かい側、長〜い滑り台のすぐ近くにあります。(エゾシカ除けのフェンスがあり、扉が設けられています。閉め忘れないようお願いします)

koke

実際に見てみると、光っているというよりも緑色が際立ってくる不思議な様子でした。

キャンプ場としても人気の本別公園は、PG場・ゴーカート・ボートそして遊具も充実しておりファミリーで存分に楽しむことができます。

本別市街から近いながら山間部の景観が広がる本別公園。散策路も良く整備されており、伝説ロマンを肌で体感できることでしょう。

この夏は、このロマンあふれる地で過ごしてみてはいかがでしょうか?

本別公園、キャンプ場の詳細に付いては、本別町公式ホームページ、観光情報→本別公園から調べることができます。

本別町のTon x Tonスポット

有限会社やまぐち発酵食品
日本一の豆どころを誇る十勝の本別町で、伝統の味一筋に本物の納豆造りを続ける山口醗酵食品。十勝産の豆にこだわり、大豆本来の味わいをお楽しみ頂くため、独自の製法で丁寧に手詰めしています。十勝の気候と風土が生んだ本別原産のキレイマメ(光黒大豆)、契約農家で栽培した無農薬大豆など、厳選した素材を使っています。納豆の驚愕の健康パワーに、更には栽培にも、製造過程でも豊富なカルシウムを含むサンゴ粉末を配合しました。毎日の健康に是非、山口醗酵食品の納豆をお試し下さい。
本別温泉グランドホテル
天然温泉と地元食材にこだわりをもってお客様をお迎えする一軒宿。
源泉かけ流しの温泉は湯冷めしにくいと評判。
道の駅 ステラ★ほんべつ
廃線となったふるさと銀河線の駅舎が生まれ変わった道の駅。
地元特産品販売コーナーでは、本別特産の黒豆「光黒大豆」を地元で加工した「キレイマメ」をはじめとする豆加工品や、採れたての農作物、銘菓、道の駅グッズ、木工品などを販売している。
焼きたてパンが人気のパン工房や中華レストランも併設しているので、ドライブの際にぜひお立ち寄りください!
道の駅内には、銀河線本別駅内簡易郵便局や観光案内所もございます。
ホーマック ニコット 本別店
お客様の声に耳を傾け、その地域のニーズに合った品揃えを心がけています。 わざわざ時間をかけて出かけなくても、近くの「ニコット」で欲しいものが気軽に購入できる店を目指しています。BBQ、キャンプ用品の買い足しにも便利ですね。
Aコープ ほんべつ店
国産野菜統一宣言・もぎたて市・道産食材おススメ宣言の3つのこだわりで、お客様に安心・安全な食品の提供を目指します。
フクハラ 本別店
入会したその日からお買物でポイントが貯まる、とってもお得な「アークスRARAカード」。
フクハラ全店でご利用いただけます!
栗林石油(株) 帯広支店 本別営業所
洗車だけでも大歓迎!ピカピカに仕上げます!
給油のときは栗林石油(株) 帯広支店 本別営業所をご利用ください。


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初夏の杜

DSC08811

(=´ω`)ノこんにちは ケラアンです。

本日の帯広市の最高気温予報は28℃(予報によっては29℃)です。

十勝管内の足寄町では31℃の予報で、これはもう初夏を飛ばして夏の様相です。

昨日、日曜日もそこそこ暖かかったのですが、風が強かったので体感的にはそうでもありませんでしたが、朝からセミが賑やかに合唱しています。

やっぱり今年の季節の進み具合は早いように感じるのです。

 

たしか…ここ数年の今頃はGW前後に夏日があり、その後あまり気温が上がらずに7月入るまでどんよりした天気が続いていたように記憶します。

(一度しまったストーブをまた出した覚えが…)

 

DSC08809

今年は天気に恵まれて運動会も晴天に恵まれていますが、かえって暑すぎるようです。

日差しが強すぎて、うっかり日焼けしてしまった方もいらっしゃるでしょう。今更ですが、紫外線対策は万全にw

 

今朝は用事ついでに「帯広神社」へお参りしてきました。

とりあえず『大病せず、健康で1年すごせますように』そして『十勝の大地(畑)に潤いを』…と。

 

DSC08810

冬の間はとても冷たかった手水も今日は心地よく涼を呼びます。

帯広神社そのもののピーンと透き通った空気感がまた涼しさを呼ぶのかもしれません。

 

DSC08812

今日は11時より『写真供養祭』も執り行われていたそうです。

扱いに困っているものの無造作に処分できない写真がありましたら、次回(来年)の供養祭に託すと良いと思います。

 

めまぐるしく空の様子が変わるこの春でしたが、夏へ向かい体調を崩さないようにしてください。
暑い日は「食中注意」も報じられるので、お弁当の取り扱いにも注意。

そしてエアコンに当たりすぎないように。

帯広神社にお参りしつつ涼を求めるのもいいですよ。

 

Wonder  full  TOKACHI での帯広神社紹介 (冬取材なので、今見ると涼しいヽ(*´∀`)ノ)

ton x ton での帯広神社の紹介


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ワンダーFULL TOKACHI File.22 国道脇の秘境 

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トブシの滝・屏風岩の滝(足寄町)

足寄には滝が9箇所ある。

一番有名なのが『オンネトー湯の滝』。ほかにも『巨岩の滝』『白糸の滝』『白藤の滝』『屏風岩の滝』『トブシの滝』『二段五丈の滝』『朝霧の滝』『美利別の滝』。足寄町史のグラビアページにその全ての写真が掲載されているの町の公式なものとされている。
この多さは山間の町ならではですが、なにしろ広い足寄町。町内に分散する滝を一度に巡ろうとすると1日では厳しいのかもしれません。

知名度が高く、比較的行きやすいのが国道241号線(もろこし街道)を阿寒へ向かう途中のオンネトー線から行く「湯の滝」。遊歩道が良く整備されています。(途中、徒歩になるので遠いのですが)

同じく241号線を走り、足寄峠付近の林道から向かう「白藤の滝」も近くまで車で寄れるため行きやすいところです。(若干足場の悪いところを歩きます)

トブシの滝

 

トブシの滝

一方、「道の駅 あしょろ銀河21ホール」前を通る国道242号線を陸別町方向へ向かった途中の『斗伏(とぶし)』地区にあるパンケトブシ川の国道際に流れの小さな川ながら涼しげな飛沫をあげる『トブシの滝』がある。

 

『斗伏』の由来はアイヌ語の『トプ=ウシ=イ』が語源で

     トプ(クマザサ)

     ウシ(群生している)

     (ところ)

となり、『クマザサだらけの土地』といった意味とですが、これに「斗伏」と漢字が当てられたのが現在の地名。

これが明治の初期には『都富資』と記述されていたこともあったという。

242号線沿線の上利別を過ぎ、大誉地へ至る手前に「斗伏坂線」の入口があり、そのすぐ脇を流れているのがパンケトブシ川。

車を寄せると『トブシの滝』の表示板が見えた。(手前に駐車スペース有り)

トブシ名板

高台を割るように流れる一筋の川。すご先に『トブシの滝』が見えた。

両側はゴツゴツした固そうな岩盤が露出する自然味あふれる景観は、すぐ後が整備の行き届いた国道とは思えないほどです。

 

この滝、わりと近年まで景勝地として認知されておらず、足寄町役場へ滝の名前の問い合わせがあったことから、斗伏の地名より『トブシの滝』と命名。

はれて『足寄の滝』として認知されたのですが、町に9つある滝。そのすべてが観光ガイド誌などで紹介されているわけではないようです。

(滝のある場所が到達困難、かつ遊歩道の整備を要することではないか?)

この『トブシの滝』、川そのものに勢いはないものの固い岩盤を滑り降りる飛沫の乱舞はたいへん涼しげで、近づきやすい所でもあることから多く人が立ち寄っていきます。

足寄町のキャッチフレーズに「自然と足が寄る町」という名コピーがありますが、寄り道スポットが多いところがこの町の魅力に他なりません。

 

すぐ先にある秘境

ところで、この国道脇の涼域には気にかかる看板がありました。

滝への案内板

手書きによるもので、この川の上流域もうひとつ滝があるという。

それが足寄名滝のひとつ『屏風岩の滝』。

調べてみたところ、林道へからエゾシカ除けのフェンスをいくつか越えた先にある滝で、6枚の屏風を並べたような岩盤に囲まれたなかなかの秘境らしい。
でも、途中から徒歩で進まねばならないことと、検索して見つけたサイトの紹介では林道の途中に崩落があり進めなくなっていると読んだ。

農家の軒先にある案内板

滝へ至る道

「滝まで行くのは無理かもしれないな…」

そう思いながらも行けるところまで行ってみるw (ダメなら『通行止め』になっているだろう)

簡略図をたよりに斗伏坂道線を登りきるとすぐ、農家の軒先に滝の案内板があった。

「屏風岩の滝」へ至る道は農家の庭先の倉庫壁に取り付けられた、この看板を目印に先へ進む。

道は林道というより畑の中を縫う農道の様子。 程なく雑木が密集する鬱蒼とした地帯に入り、いよいよ林道らしくなります。

二つ目のゲート

や視界に金属製の網を張り巡らせたフェンスが入ってきました。これは、エゾシカが畑の中に進入し、作物を荒らされないようにするためのもので、足寄・陸別や山沿いの地域でよく見かける風景です。(途中、右側にスェンスの間に赤いゲートが見えますが、そこではなく更に先へ進む)

滝は、柵の向こう側にあるということですが、人の背丈を越える柵を越えていくのは容易ではありません。
事前の調べによると、「ゲートを4箇所開け閉めする」とあり、出入口は装備されているらしい。
やがて道を塞ぐゲートに突き当たる。ゲートに「屏風岩の滝」の表示を見かけ「ここで間違いないw」と、ひと安心。

車で近寄れるのは、ここまでで先は徒歩で向かう。
ゲートの向こうは営林作業の様子もあり道の荒れている箇所やぬかるみも見える。

長靴、帽子、手袋、虫除けスプレー… そして一番大事な『クマ除けの鈴』。それも3つ着けて『クリスマスのトナカイみたいだなぁ…』と思いつつゲートへ。
ところで、ゲートは扉というよりもパイプに繋がった金網のカーテンを鎖で固定してあり大変重い上、開けた葉は良いが閉めるのも骨が折れます。
4か所のゲートは、金網カーテン状 → 大きな片扉 → 金網カーテン状 → 小さな扉 と続きますが、行き帰りの開け閉めはお忘れなく。

屏風岩沿いの旧道

二つ目のゲートを過ぎたところから景色は渓谷沿いの林道に変わった。道筋には幅があり、わりと平らで山菜畑のようだ。

「おや!?」

気がつくと、右手側の山際は大きな岩盤がそびえ、いよいよ秘境感が増してきました。(と、ここまでは楽観的)
古生代の哺乳類アショロアの化石が発見された足寄町ならでは雰囲気です。(このあたりの岩盤もその時代のものであるかは不明)
歩を進めると岩盤の光景がどんどん拡大していき、露出しているというよりもそびえ立っているという光景に変わってきた…。

 

旧道とかつての名所

国道242号線は利別川沿いを通る道。

起点網走市から終点帯広市までを結ぶ道で、特に足寄郡陸別町から国道38号・幕別町明野交差点の区間(十勝総合振興局内の単独区間)を通称『陸別国道』と呼ぶ。

1954年(昭和29年)3月30日
北海道道30号留辺蘂西足寄線(常呂郡留辺蘂町 – 中川郡西足寄町)、北海道道34号幕別西足寄線(中川郡幕別町 – 中川郡西足寄町)として道道認定。
1963年(昭和38年)4月1日
二級国道242号網走帯広線(網走市 – 帯広市)として指定施行。
1965年(昭和40年)4月1日
道路法改正により一級・二級区分が廃止されて一般国道242号として指定施行。

足寄町と陸別町を結ぶ区間は利別川沿いを走るとはいえ、蛇行する川は何度も国道と交差する。

旧道道以前の時代は全道的に道路は質よりも長さ(距離)に重きが置かれ、充分な整備を行うには予算が不足していました。

木造の橋は度重なる水害に流失。改善もままならず、代わりに施設の渡し場が橋の代わりを担っていたところも少なくはありませんでした。この地域でも同じような状況の中、必然的に川を迂回するルートがとられ険しい「一服峠」など当時の道路事情を思わせる名の道も残されている。

川を避けるように、そして川と同じように蛇行する道。

交通(流通)の便を改善することで内陸地の過疎化を防止の目的により帯広土木現行所により河川橋の永久化工事は進み国道242号線へと昇格する。しかし、新設された国道が舗装化整備されるには和45年以降まで待たなければならなかったようです。

その整備計画の中で旧道の一部が主要道路から切り離されていった例は、けっしてここだけのことではありません。

屏風岩の始まり

「屏風岩の滝」を目指したとにき歩いた林道は、この国道242が全通するより前の時代に使われていた道であったらしい。
道筋は「下斗伏第二林道」と名付けられているものの元・主要幹線道と聞けば、なるほど思わせるほど広く歩きやすかった。

国道開通以前、旧道道が池田と北見を結ぶ道で、この辺りで滝を見ながら荷馬車が行き来していた。滝の近くでは昭和初期に水車を動力にした薄皮や「まさ」をつくる経木(きょうぎ)工場が稼動していたという。
上利別、大誉地の子どもたちは、遠足で「屏風岩の滝」にを訪れ、滝の周りで弁当を広げ滝の脇も登って遊んだ。

 

小さい頃、家族旅行で通った道。

大人になって自分でハンドルを握るようになり、その記憶を辿ろうと思い出の道を走ってみると違和感を覚えることがある。

黄金道路、日勝峠、三国峠…道は常に進化し続ける生き物のような存在です。

記憶が曖昧だったわけではなく、道も私と同じように成長し続けてきた証。記憶の道も、姿は変われど、残っているものなのでしょう。

それが人々の日常から忘れられることになっても。

屏風岩崩落個所

 

自然に還る途中の崖縁の道。わりと近いところから川の流れる音…いやあれは滝、屏風岩の滝に違いない。

滝の壮観な姿は見えないかと谷底を気にしながら進んだところに思いも寄らない景色が現れた。

山側の岩盤はさらに高くそびえていたものの、見るからに危なっかしい。

画像からでは伝わりませんが、進むのを止めて戻ろうか…と思わずにいられないほど威圧感があった。

かつての名所「屏風岩」の眺めである。

「屏風岩の滝」は、この岩の近くにあるため、この名が付けられたらしい。

上士幌町の「ぬかびら源泉郷」へ至る道の途中にある「鱒見覆道」手前の音更山道碑付近にそびえる「柱状節理」とは違い、粗挽きの砂岩のイメージのする巨岩の下には大きな岩石ゴロゴロしており、破片が堆積し小山を作っているところもある。

「急いでお通りください」の文字になおさら恐怖を感じた。

これがかつての道道。これは迂回しても仕方ないところもありますね。

しばらく岩盤を観察したのち、先へ進むことにする…

途中の表示板最後のゲート

「急げ」と言われても急げない足場の悪い地点をなんとか通り過ぎカーテン状の第3・第4ゲートを越えた。

広がる景色は、すでに鬱蒼としたものではなく、大きな空とそれを二分する稜線の景色に変わります。

滝の音はいよいよハッキリとして、その音に誘われままにクマザサの斜面を下りていく。

これが「トブ=ウシ=イ」らしい景色であるのかもしれません。

勢いのある滝から生じた飛沫は風に乗って頬をかすめていく。

この辺りの草花はマイナスイオンたっぷりの流域で潤わされイキイキとしている。

同じ空気をあびて、このプチ冒険は、冒険とは言えないのかもしれないけれど大きなものを得られたような気がしました。

 

あの道を戻るかと思うと… ちょーっと憂鬱でしたね。

※この取材は、ひと月ほど前に行ったものです。季節の進んだ現在とは様子は様変わりしているかもしれません。
※野生動物が生息する区域です。クマ鈴の携行等の安全対策は行ってください。
※携帯電話のエリア内ですが、場所によっては繋がりにくくなります。
※「危険」と思われる場合は戻る勇気も必要と思われます。
※各ゲートは滝鑑賞のため、地域自治会と関係者各位により設置・整備されているものです。開け閉めは確実に。破損が認められた倍は最寄の自治体に報告をお願いいたします。
※車から離れる場合は施錠し、貴重品は車内に放置しないでください。人気のない場所とはいえ用心に越したことはありません。
※とって良いのは写真だけ、残して良いのは足跡だけ。自然に優しく。少しだったら山菜も良いと思いますが、近隣農家の畑に無断で入ることはないように。
 参考:足寄百年史/足寄町史編さん委員会(平成19年発行)
   とかちの国道/北海道開発局帯広開発建設部監修(昭和56年発行)
   十勝毎日新聞連載記事「私の好きな風景(5)」(2002.5.7)

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癒しの森

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西帯広通りの大成川沿いにある『津田の森

津田とはこの緑地公園のもともとの所有者、津田禎次郎氏の名から付けられたものです。

明治時代にこの地に入植し、第一期伏古村(帯広市編入前)村議会議員や帯広町外四付組合議員などの公職を歴任し、地域産業の発展・教育の振興に貢献。特に水田起業に果たした功績は大きかったという・

詩文にも秀いでおり、自らを『涓涓洞』と号しており、晩成社の依田勉三、鈴木銃太郎、渡邉勝らとの交遊も深めていたそうです。

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大正2年、日常生活の喧噪を離れるために母屋に接した“”はなれ『涓涓洞(けんけんどう)』を設けで風光を楽しんで悠々自適に過ごした。

後に涓涓洞と自然豊かな森は帯広市に譲渡され、市民憩いの森となっている。

住宅街に囲まれた森ではありますが、大自然の息吹は森の外まではみ出るがごとく豊かで、街の喧噪のなかにあるとは思えないほどですね。

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生命にあふれた森の中は、木材チップの敷かれた散策路もホッとするほど柔らかく、心も癒されてくる。森の外を通過する車の音が潮騒にすら聞こえてきそうです。

路の中程に名前のわからないお地蔵様(?)が建てられており、涼と癒しに訪れる人たちのこころを和ませることでしょう。

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もう少し季節が進むと虫除けが必要になるかもしれませんが、一層森らしい景色が楽しめるでしょう。

木漏れ日が降り注ぎ、新緑と春の野花にあふれる今もまた良い頃かと思います。


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ワンダーFULL TOKACHI File.21  水を讃える神殿

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水の神殿 (音更町)

 

音更町の郊外に「水の神殿」というところがあると聞いた。

その名を聞いた時に思い浮かんだのはセレモニーホール。トマムにそういうところがあったかもしれない。(あちらは「氷の神殿」w)

噴水が音楽に合わせて飛び交い、花々が咲き乱れる庭園的なもの。いつか、どこかのシアターで観たことのある映像作家、ケネス・アンガーの「人造の泉」という短編実験映画のイメージが脳裏に断片的に浮かんだ。

 

ところが、ネットで「水の神殿」を検索してみると「ゼルダの冒険」や「モンスターストライク」などゲームのステージがトップに出てくる。

まさかゲーム関係のお店…?

ゲーム情報では…「Wonder full TOKACHI」のネタにはなりません。

 

半信半疑ながら検索情報に「音更町」を追加。

すると、一見無骨で威圧感のある半分土に埋もれたドーム状の画像が出てきた。

この形…例えるなら「トーチカ」のようです。威圧感を感じるのはそんなイメージを彷彿とさせるからかもしれません。

 

300年の時を越えてきた水

izumi春の深まった十勝。

遠くに望む日高山脈は、いまだ白い雪を被っている。

この北海道の冬の山々を覆う雪は『自然のダム』に例えられることがあり、融雪水として河川を流れてmこの広大な大地を潤している。

川の水は目に見えるものだけではなく、伏流水(河川の流水 が河床の地質や土質に応じて河床の下へ浸透し、 上下を不透水層に挟まれた透水層が河川と交わるとき透水層内に生じる流水)も伴い大きな流れを作っている。

川筋をたどる水だけではなく、地下深くに浸透し、地下水として溜め込まれるものを入れると私たちの足元には実に大きな水がめがあるとも言えるでしょう。

それらは大地のいたるところで湧水として見かけることもある。

養魚場や農家の庭先で懇々と湧き出して利用されていることも多いらしい。

これらの水は大雪の山に積もった雪が地下に浸透し、長い時間をかけて濾過(ろか)されて、天然水が評判の現在、あちこちでご当地天然水として商品化されているものも多いようです。帯広でも「帯広の天然水」という名前で発売されてものがありますね。

これらの地下水が私たちの近くまで来るのに実に300年の年月をたどっているのだという。

無味無臭のはずの水ですが、飲んでみるとたしかに美味しい!

南極の氷に太古の空気が閉じ込められているというお話と同じようにコップ1杯の水にさえもロマンを感じます。

 

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 水の神殿

ミネラルウォーター製造・販売の深層地下水研究所(音更町)が所有する敷地内に帯広市内に支店を持つ鎌田商事(香川県)が1,200万かけて設けたのが、この水をテーマとしたモニュメント。

※鎌田商事は寛政元年(1789)創業の老舗醤油醸造会社で平成10年(1998)に帯広工場を竣工し、十勝との付き合いも深い会社です。人形師である四谷シモンの作品を公開する『四谷シモン人形館 淡翁荘(香川県)』も、この鎌田商事の経営。

設計に携わった建築家で早稲田大学教授の石山修武氏は語る。

『水の神殿』は北海道・アイヌの聖地に建てられた社であり、庭園である。

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神殿は300年の時を経て大雪山系から十勝の大地へ至る水と、それにより培われた大自然を象徴する。

深さ250メートルの地下から湧き出す水は、豊かな大地を照らす光の下で命あるもののように躍りながら神殿のドームへ向かい中心に埋められた水琴窟(すいきんくつ)へと注ぎ込んでいく。
その音が水琴窟の中で響き、長い時を越えて光を得た水はドーム内を自在に飛び回るように音が増幅する。
水の自噴点にあるモニュメントはヤナギの木で作られたもので、アイヌ民族と日本人の想いを融合させた物だという。(祭壇と鳥居のイメージ)

※水琴窟とは日本庭園の装飾の一つで、手水鉢の近くの地中に作りだした空洞の中に水滴を落下させ、その際に発せられる音を反響させる仕掛けで、手水鉢の排水を処理する機能をもつ。水琴窟という名称の由来は不明である。帯広児童会館の1階ロビーに現物が展示されており、その音(録音)を聞くことができる。

ドーム内壁には弧を描くように筵(ムシロ)が埋め込まれている。
設計に携わった建築家で早稲田大学教授の石山修武氏は、このドームに戦時下、戦闘機などを空爆から隠す(或いは退避させるため)目的で建造された掩体壕(えんたいごう)をイメージしたのだという。

2009年7月に建造されたこの神秘的な神殿は、2013年に『とかちアーティスト・イン レジデンス』のプレイベント“水のアートワーク2013”において浦幌町・士幌町とともにこの音更町の水の神殿が体感型アートワークの舞台となる。
水と大地のパワー、そして時間の移ろいをテーマにした空間芸術(インスタレーション)により神殿は、より神秘に包まれていた様子です。(そのときに行きたかった…)

 

春のイメージは芽吹く新緑。そして小さな雪融け水から始まるせせらぎの音。

水琴窟の他にも水の音、日本庭園の『ししおどし』や水車のように水を利用した音は心を和ませるものだ。

せせらぎや滝の音、ネイチャーサウンドを録音したCDがあるほどです。

街中にいても、信号待ちの間に春の雪解け水が雨水溝に吸い込まれる音に心を奪われることがある。

この『水の神殿』は、陽射しの降り注ぎ風のそよぐ社(自然・大地、いわゆる聖地)より生じた清らかな水が大地を縫って人の住む世界(ドーム、あるいはシェルター)へ至り、再び大地へ帰っていく様を描く。

無機質なコンクリート製のシェルターもまた、大地の延長に他ならず水により生じた自然と一帯となっていく。

「静」であり「動」  そして、「洋」でも「和」でもない単純でありながら奥深く根源的で、まさに北海道の大地らしい神殿ではなかろうか。

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ここにおいて人の世界の時の流れは無縁にすら思えてくるのです。

こんな世界を体現するのも旅の楽しみ。

「旅」の道筋は、遠い地ばかりではなく、すぐ近くにすら普通にあるもの。

また次の旅でお会いしましょう。

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『水の神殿』(深層地下水研究所敷地内・大雪山系深層地下水250m開鑿之地)

大平原の中にあり場所が見つかりにくいため、地図のナビゲーションを利用することをお勧めします。
現地までの案内板が設けられておらず、神殿も周囲の土盛りで幹線道からは死角になり確認しにくいので…
(私は2回目でたどり着きましたw)

 


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第21回「断捨離」

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ワンダーFULL TOKACHI File.20  アリトムテの祈り

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蝦夷文化考古館 (幕別町 千住)

(=´ω`)ノ イランカラプテー(こんにちは)

ケラアンです。『ワンダーfull TOKACHI』も第20回。

十勝の知らなかったこと、 不思議なところ、 意外なところ

そして「知っていたけど見たことがなかったこと」 そんな原風景を探して色々調べてます。

帯広市街地の北部を通る国道38号線。
帯広神社前を東へ向かうと、間もなく十勝川と合流する札内川、そしてそこに架かる札内橋を渡りきると、隣町の幕別町・札内へ入ります。
札内地区は本町から離れているとはいえ、古い時代には駅逓も開設され、鉄道が敷設された頃も駅が設けられ発展しました。

帯広市に隣接していることから1975年ころからベットタウンとして発展、住宅地が広がります。現在は大型店舗もたくさんあり、暮らしに便利で人気の街。
幕別町は、1906年(明治39)に幕別村、止若(やむわっか)村、咾別(いかんべつ)村、白人(ちろっと)村、別奴(べっちゃろ)村の5村が合併し二級町村・幕別村となったところから始まり、2006年には旧忠類村が編入合併し、パークゴルフ(幕別)とナウマン象(忠類)に象徴される町。
ウィキ調べによると『大正金時豆』が発見されたのも幕別町なのだそうです。
山岳といった高地を有する町ではありませんが札内市街を越えると、夏場などは十勝を象徴する緑色のパッチワークのような田園風景が広がっています。
町名の由来は、アイヌ語の『マクンベツ』にあり、「山際を流れる川」を意味している。
町を流れる川は、十勝川を始め、札内川、途別川、猿別川、当縁川が大地を潤し、晩成社の依田勉三が稲作に成功を納めたのも幕別町依田地区であり、帯広市と共に十勝の礎となった土地に違いありません。
町内を流れる途別川沿いには、明治、大正から昭和にかけて国民歌人として親しまれた若山牧水が東大雪と日高の山並みに感嘆し、一晩の我慢と投宿した宿を翌朝に連泊に変更したという黒田温泉跡もあり、「水の利」にさえ古のロマンを感じる町なのです。

今回の「ワンダーFULL TOKACHI」は、この「途別川」を下ったところにある小さな文化資料館のお話です。
国道38号線を札内市街を通り過ぎて幕別本町へ向かう。市街地が途切れてから程なく途別川にかかる千住橋を渡る。

この橋を過ぎてすぐ左側、何やら変わった感じの民家とは例えにくい古建築の建物を見たことはありませんか?

車で前を通ると、あっという間に通り過ぎてしまうのですが、小さく看板が建っていて、蔵にも道場のような看板が架けてある。

ちらっと目に留まった文字が「蝦夷文化」。

難しいけど目に留まるりやすい文字。どうやら文化的な施設のようです。

そこが幕別町の観光ガイド等にも紹介される『蝦夷文化考古館』。

現在は幕別町が管理する文化資料展示館ですが、創設は土地と民族を誇り高く愛した男性の尽力により誕生しました。

 

小さな…でも志し大きな資料館

アイヌ文化史幕別町千住の辺りは、かつて「白人(チロット)」というひとつの村でした。「チロット」はアイヌ語の「チリロクト」。『鳥が座る沼』という意味で、アイヌの人々の言葉を漢字で音写しています。

この白人村になる土地にアイヌ民族が住みついたのは寛延2年(1749)と伝えられており、その多くが北見方面から移住してきたといわれています。
白人(チロット)コタンのアイヌの指導者であった故・吉田菊太郎氏は、昭和15年(1940)、北海道アイヌ文化保存協会(会長を勤める)を組織。

その頃、チロットコタン・十勝アイヌの伝統的な民具や着物類などが、いつの間にか自分の身近なところからも消え、散逸していくことに吉田氏は心を痛めていました。そこで資料館を建て、先祖が残した民具を始め、和人(本土から来た日本人)との交易によって手に入れた行器(シントコ)などの宝物を永久に保存しようと決意。
手始めに吉田氏は資金源調達のため、昭和33年に「アイヌ文化史」を執筆・発行。この冊子の推薦を当時の北海道知事・田中敏文氏、北海道大学教授・高倉新一郎氏、十勝支庁長・安田貴六氏、幕別町長・中島国男氏らに願う。この冊子は吉田氏自らが府県を行商に歩き、中島幕別町長や幕別議会にも陳情。議会で助成することが決定し、これに吉田氏の自費と有志からの寄付を集めて考古館建設の目処が立ちました。(総工費200万円)

このころ吉田氏は、萱野 茂かやの しげるアイヌ文化研究者であり、彼自身もアイヌ民族である。アイヌ文化、およびアイヌ語の保存・継承のために活動を続けた。二風谷アイヌ資料館を創設し、館長を務めた。政治活動面ではアイヌ初の日本の国会議員。1926 – 2006)との交流も氏の遺品に萱野氏の名刺が残されていることから同胞として繋がりがあったと思われます。

考古館建設が決定したことから吉田氏は、その予定地として自分の家を解体・提供。あらかじめ収集・委託されていた資料を保管する部屋の広さなどを考え、かつ火災に耐える建物の設計を何度も繰り返したといいます。

吉田菊太郎氏が考古館建設のために書した陳情書

アイヌ文化考古館建設についてお願い
(前略)鎌倉時代から本道開拓のため移入する内地人の奴僕となって、深い茨を分けて道しるべとなり、或は河に丸木舟を操って荷役に努め、開拓移民の先駆者として文字どおり犬馬の労に身命を曝す。その酬(むくい)として与えられた品々及び物々交換に依って求めた諸々の物が宝物として先祖は大切に保存し、子孫に遺したのでありますが、之等の古俗品も滅亡する者と共に果敢なく消え失せつゝあることは誠に悲惨な状態であります。
先住民アイヌの先祖に対する餞(はなむけ)として、将た又向後の考古資料にも役立たせようということから、白人古潭のウタリが中心となり、北海道アイヌ〔文化〕保存協会を組織し、古俗品を蒐集して一堂に収め永久に保存する事と、ヌサを設けて先祖が行ったカムイノミの祭り事も今のウタリが生存している間だけでも実行することが同族の義務であるとして、白人古潭にある勅使御差遣記念碑の附近に於いてアイヌ文化考古館(仮称)約30坪、総予算200万円位を建設する企画を樹テ(後略)

吉田氏と関係者の尽力、および陳情運動によって『蝦夷文化考古館』は1959年(昭和34)完成。館内に展示されているものは、一本木の丸太舟、黒曜石製の石器、刀剣、弓矢、矢筒、盃、酒桶、着物等の生活用品、宝物とされていたもの、写真、書類等、これらすべてアイヌ文化・北方民族文化、そして北海道の歴史文化的にとっても大変貴重な品々です。
文書資料は幕別・十勝、白人・千住、考古館、人物、各種行事、書簡、地図、賞状、名刺など。この資料は明治20年代からの資料を多く含んでおり、明治期の十勝アイヌが置かれた状態を知る上でも貴重な資料とされる。
資料の内容には三つの特徴がある。
第1は、内海勇太郎が中川郡十弗村外九ケ村の「旧土人共有財産」の管理事務に携わっていた明治期の関係資料がまとまって残っていること。
第2は、アイヌの農耕地に関する資料であること。
第3は、大津市街の様子や十勝太市街の形成など、明治・大正期の十勝を知る材料が含まれていること。

建物延面積は124.44㎡(38坪)、そのうち展示室は42.6㎡(13坪)で管理人室は81.8㎡(25坪)。
吉田菊太郎は展示室を宝物堂とし、ベランダは地域の検診室とし、管理人室は六畳二間でそれぞれを居間と台所と考えていた。

 

館内3

「蝦夷文化考古館」の機能は単に過去の物品等を収集した歴史資料展示館としたものではなく、それらを未来へ託し民族の誇りと文化を可能な限り継承させるための「よりどころ」としての機能を託したのではないかと思います。
構造は主としてブロック建築(一部モルタル)、鉄板葺きの屋根には鬼瓦も見え、大きな蔵と棟続きの母屋という印象。

和風の造りながら、どこか洋風さも感じさせる。しかし多文化的にも思えない不思議なイメージがします。

展示室の中は、資料室というには似つかわしくない、広い板敷きの広間のような雰囲気。

中央に大きな丸太舟がありますが、これを外へ出せば、今でも十分集会を開くことも可能に思える。おそらくは、有事には利用できるという構想もあったのではないでしょうか。

館内

 

 

吉田菊太郎という人

1896(明治29)年7月20日 父トイペウク(吉田庄吉)母アシマツ(マツ)の長男として幕別村白人にて誕生。

アイヌとしての名は「アリトムテ」

【アリ】 ①~と  ②置く・残す  ③火を焚く  ④~で

【トムテ】 光らせる・輝かせる

その名前の具体的な意味を計りきることは難しいのですが、アイヌの文化の保存し、輝かせることに尽力した人であることは、経歴からも見えてきます。

Yosida_Kikutaro1903(明治36)年4月 白人(チロット)尋常小学校入学。
1909(明治42)年3月 同校卒業。4月幕別高等小学校入学。
1911(明治44)年3月 幕別高等小学校卒業、農業に従事する。
1924(大正13)年6月16日 幕別互助組合設立、評議員に就任。
1927(昭和2)年5月8日 十勝アイヌ旭明社創立(喜多章明社長)に参加。
1929(昭和4)年7月8日 精神修養と生活改善を目的とする白人古潭(チロットコタン)矯風会創立、会長に就任。
1930(昭和5)年1月 「旧土人保導委員」に選任される。
同年3月16日 白人古潭納税組合を組織、会長に就任。
同年10月 白人古潭矯風会館建設。
同年12月 白人共栄甜菜組合を組織、組合長に就任。
1931(昭和6)年 北海道アイヌ協会『蝦夷の光』2号、3号編輯兼発行人。
1932(昭和7)年3月 方面委員に任命される。
同年4月 幕別村会議員に初当選。
1934(昭和9)年1月 道長官より白人古潭納税組合が表彰を受ける。
1936(昭和11)年4月 議員再選。
1941(昭和16)年2月 納税功労者として道庁長官より表彰を受ける。
1946(昭和21)年2月 社団法人北海道アイヌ協会副会長に就任。
同年10月 十勝アイヌ協会を結成し会長となる。
同年11月 社会事業功労者として厚生大臣表彰を受ける。
1947(昭和22)年4月 幕別町農業会長に就任。
1958(昭和33)年5月 古館建設費作りのため「アイヌ文化史」を発行。北海道アイヌ保存協会会長として本州各地で講演・陳情活動を行う。

1959(昭和34)年12月 考古館落成
1964(昭和39)年11月 北海道新聞社会文化賞受賞。
1965(昭和40)年1月 心筋梗塞により逝去。

 

考古館の設立に関する活動は、吉田氏が晩年より本格化したことで、氏の行動は勢力的というほかありません。
その完成後も自ら館長として就任。学校等での講演や更なる貴重な資料の収集に奔走し、幕別町も吉田氏の応援をしてきました。

この活動が認められ、吉田氏に昭和39年11月、北海道新聞より社会文化賞受賞が授与されました。

しかし、その2ヶ月後の1月6日、吉田氏は突然の病により倒れ、家族や友人が見守る中、永遠の眠りにつきました。享年69歳。

アトゥシ

 

遺族は故人の意志を尊重し建物ならびに収蔵品のすべてを幕別町に寄付。以来幕別町教育委員会が考古館を管理している。職員は専門職員を置かず管理人を置いている。初代の管理人は菊太郎氏の妻「いさの」氏。

「幕別蝦夷考古館」開設の事業は、吉田氏が晩年に至ってからの事業で、開館当初は「アイヌ文化考古館」という名前であったそうですが2年ほどで現在の名前に改称されました。(この時期と理由については不明)

この頃、北海タイムス紙において「ひとつぶの麦 アイヌ古老と考古館 古俗品保存に心血 東奔西走十年、目的達す」のタイトルで紹介される。

これを期にアイヌ民族の伝統をたたえる古俗品が続々よせられ、百点を越える陳列品は見学者の人気を博しました。

この吉田菊太郎氏の悲願が考古館の完成として結実したのですが後年、心無い事件も起きてしまいました。

 

事  件

平成5年2月16日、貴重な展示品が盗難される。
盗まれたものは、エムシ(飾り刀)7振り、パスイ(捧酒箆)28点、イタンキ(お椀)6点、エムシタリ(刀ひも)、トゥキ(神事用の杯)8点など被害合計は65点。

その後、犯人が逮捕されたが、盗まれたもののほとんどは、すでに第三者に売り渡されたあとであり、蝦夷文化考古館へ戻ることはなかった。これは収蔵品全体の22%にもなる損失で、金額にしておよそ500万円相当に及んだという。

土地の文化は、その土地にあってこそ意味があり、真価があるものだと思います。

歴史的・骨董的な価値だけでものの真価を計り、その背景にある文化的価値を失ってしまう例は、実は少なくないのかもしれません。

現在は古くなってきたこともあり、決して綺麗ではない建物ですが、厚いガラスの向こうに飾られた遠い昔の遺物よりも手を伸ばせば触れられる(それは基本的にダメでしょうが…)ほど近い展示品は、古いものというより『ものを語らぬ語り手』のようで、知らず知らずのうちに心にそっと触れてくるのでした。

 

イランカラプテ (あなたの心に そっと触れさせてください)

看板

参考・出典:Wikipedia 『吉田菊太郎』の項

『北海道・博物館と人 -博物館を支えた20人の生涯-』 CERO叢書 2011年発行

『アイヌ文化史』 吉田菊太郎 著 昭和33年発行

 

 

幕別町蝦夷文化考古館

幕別町千住114番地1
入館料:無料
休館日:毎週火曜日(祝日の場合はその翌日)、年末年始(12月30日~1月5日)
開館時間:午前10時~午後4時(展示館は施錠されているため、棟続きの管理室の方へ観覧の申し込みをしてください)


※帯広市から向かうと、幕別町の国道38号線沿い、途別川にかかる千住橋を渡りきった、すぐ左側です。千住橋の前後は坂になっているため見通しがよくありません。橋の手前からの減速、舎監の確認、早めの左折表示をお勧めします。
反対方向からも対向車にご注意ください。

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