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ワンダーFULL TOKACHI File.8 黄金の道

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黄金道路(広尾町─えりも町)

 

黄金道路とは

霧に包まれる黄金道路覆道

 その名の由来は『黄金を敷き詰めたようにお金がかかった道だから』と広く全国に知られています。

小さい頃の記憶では、目の前が海というロケーションであるのにトンネルと窓のたくさんある『覆道』の連続で、車の窓から海の方をジーッと見ていると催眠術にかけられているような感じがしてきます。

ザブーン!

びっくりして我に帰ると、覆道の切れ目から車道までバケツで水を浴びせかけてるように波が飛んできて車の片側が海水で濡れてしまいました。
それは飛沫という程度でしたが、気が付くと晴天にもかかわらず路面が所々で濡れており、砂利や海藻の類が落ちています。
海の様子が伺いにくい道ですが、波の間際を走る道。間際というよりも、この道は陸よりも海の側に作られているような気さえしてくる。
これで海が荒れている時などは、どういうことになるのだろう…

この恐ろしいほどそびえ立つ岩山が無く、なだらかな海岸線がどこまでも続いていれば、日高どころか北海道内の大半の交易を早い時代から担い、また北海道開拓の歴史も今とはずいぶん違ったものになっていたことでしょう。
ところがこの海岸は容易に人を寄せ付けません。

「黄金道路」は、主として広尾町広尾から襟裳町庶野までの約33㎞の区間のことです。
日高と十勝・道東を隔てる日高山脈。北は大雪山系へとつながり、南はそのまま海中へ没していく地形となっています。日高山脈の南端の海岸線は垂直な岩肌がそびえ立つ地形が続いていく。北海道がまだ蝦夷地と呼ばれ、和人に、ほとんどその状況が知られていなかった時代。しかし、この人を寄せ付けそうもない沿岸に人々は訪れていました。
容易には登り降りのできない岩山の直下、波打ち際は、かろうじて交易の道として使われ始めました。その当時から、あるいは和人が蝦夷地に踏み入るずっと前からアイヌの人々の間でもここは交通の難所で、人間が立ち入ってはならぬ神々の領域だったかもしれません。
難所といえど北海道の東西を結ぶために重要な道。このころ内陸のほとんどは未開発の土地です。例え内陸への調査が進んでいたとしても日高と大雪の山々は、たやすく人を越えさせません。
この蝦夷地に1600年代中ごろには、すでに金の採掘や漁業で和人が入ってきており、アイヌの人々とも交易を行っています。

昔の人たちが命がけで歩いた道

 

近藤重蔵の道づくり

 1798(寛政10)年、江戸幕府は蝦夷地へ調査団を派遣。松前から宗谷に至る西蝦夷地と松前から択捉島へ至る東蝦夷の2班に分かれるものです。そのルートの大半は、海岸線を進むものでまだ道らしい道もないため、旅をするには海岸を歩いたり高いがけの登り降り、川は船を設え漕いで渡るしかありませんでした。
 この東蝦夷地調査のリーダーが近藤重蔵(江戸時代後期の幕臣、探検家)で、択捉島到達の帰りに再びこの地を通りましたが、運悪く風雨が強まり、数日の間先へ進むことができなくなりました。

 左から旧道・旧々道・旧々々道のトンネルが並ぶ

 このとき、広尾と襟裳の間に道をつくってほしいというアイヌの人たちの願いもあり、苦心の末、ルベシベツからビタタヌンケまでに3里(約12km)の山道をつくりました。
 この道がルベシベツ山道。後に作られる各山道の先駆けとなり、函館から根室までの太平洋岸を馬で容易に(?)旅ができるようになりました。
その後、調査団の1人で、猿留山道(後に伊能忠敬、松浦武四郎も通行)を開くことになる最上徳内(江戸時代中後期の探検家であり、江戸幕府普請役)が重蔵に道路の必要性を力説したことから重蔵は、それに応えて私産を投じ、山道の開削を行います。
 これは狩人が使っていた小道に沿って作ったた道ですが、これら開拓などの功績により、近藤重蔵は1911(明治44)年に正五位を贈られ、現在は北海道神宮境内社の開拓神社に神として祀られる存在になっています。
しかし、この道は交易の道となっていても難所を迂回した形であり、黄金道路の前身とは呼びずらい。

明治25年に掘られた手掘隧道が見える

 

道路開削の問題

 山道が作られたものの利用する人たちにとって遠回りになる山道は、あまり好まれず、海岸線道の利用が多く、あるいは山道との併用で使われ続けていました。波の合間をぬって走り抜ける通行は、時として一瞬にして人の命を奪い去っていく。
現在でも眺めの良い場所から波打ち際の岩場を見ていると、好天で風が穏やかにもかかわらず集まってくる波は、荒々しく岩場に打ちつけ飛沫を上げています。その辺りを重い荷物を背負った人が必死の形相で走っているところを想像するとゾッとします。

1985(明治18)年頃は、狩勝や日勝・野塚などの峠道が開かれるずっと以前であり、北海道の東西を結ぶ重要路として海岸線の道は国道43号の指定を受けます。

 翌年、北海道庁が発足し猿留山道下に海岸道路を起工。4年後に竣工し、1891~92(明治24~25)年ルベシベツ山道沿岸にも隧道(トンネル)や86箇所の板橋を含めた道が作られました。しかし、これも決定的な流通路ではなく、海が荒れるときは山道を使わねばならない時代はしばらく続きました。

 やがて時代は大正に入り、1919(大正8)年。路線は地方費道7号帯広浦河線に降格となりながらも広尾村は海岸線の安全な通行路を政府に陳情。1925(大正14)年、土木事務所長などと話し合いが行われます。

 しかし、1887(明治20)年頃から付近は昆布漁民が急増しており、海岸線は昆布干場に利用されていました。切り立った崖の続く海辺において開けた土地は大変貴重で、道路を作ることで昆布を干す場所が縮小されることは、昆布漁師にとって大打撃です。

 また、崖下には漁民が昆布採取期間の住まいに使う小屋も多く建てられており、大正15年の道路工事着手が決定されたときは強固に中止の請願を始めたほどです。この道路開削についての条件が、私有地の無償提供では、なおさらのこと反対だったでしょう。比較的余裕のある干場を持つ地域は、当初、条件に納得しましたが、単に馬車程度が通るくらいと思っていたところ、工事の詳細が知らされると思いのほか大規模な工事になので驚いて「話が違う!」と反対派に鞍替えする漁民もいました。

 なかでもルベシベツより南の地域は、断崖が海に突き出たところで、ただでさえ干場が少ないので用地提供することは死活問題ということで道路開削には猛反対。

 こうした中、広尾漁業協同組合長の干場定五郎は、反対派の漁民に対し「道路の開削が昆布干場の減少になったとしても道路敷設によって受ける利益のほうがはるかに大きい」と懇切に説得。
定五郎の熱意に反対派は説得され、道路工事は1927(昭和2)年にようやく着工の運びとなりました。
敷設された道は、確かに沿岸漁民の生活に重要な道路になりました。その反面、道路は前浜への自由な出入りの支障になり、護岸工事により昆布海藻の減少、漁場が狭められるなど不安の声も少なからずありました。

岩山と海の間はとても狭い

 

悲願の道路工事着工

 工事着工に先立ち、昭和2年7月6日、広尾市街浄水場で起工式が行われました。
広尾・庶野間33km余のうち、広尾村の範囲は帯広土木現業所が施工。幌泉村の分は室蘭土木事務所が受け持ち。
 この工事は、発破で岩盤を開く(砕く)方法で掘り進んだ北海道でも最初の工事だったそうです。

広尾側は6つの工区に分けられます。

第一工区 広尾橋右岸よりフンベまで 1,836㍍ 昭和2年11月23日完工
第二工区 フンベよりビホロまで 618㍍ 昭和3年9月5日完工
第三工区 ビホロよりオナオベツまで 2,872.91㍍ 昭和4年10月27日完工
第四工区 オリコマナイより音調津まで 1,632.36㍍ 昭和5年10月24日完工
第五工区 音調津よりモイケシまで 1,780㍍ 昭和6年8月31日完工

広尾町の黄金道路は朝日坂から始まる

  第五工区竣工の年、広尾本通3丁目1番地より広尾橋右岸まで745mの道路を崖を切り開いて第一工区と接続。12月25日工事は完了し、モイケシまでの道が通じました。
この竣工に先立ち、新しくできた坂の名前を募集し「朝日坂」と命名。
こうして音調津・広尾間の道が完成すると自動車・自転車の通行が容易になり鉄道(国鉄広尾線)が開通すると以前は4日がかりだった帯広までの行き来が日帰りで可能になりました。
これには、かつて道路開削に反対した人々は、誠に干場組合長の言うとおりであったと深く詫びたそうです。

最も難関といわれた第六工区 モイケシよりルベシベツまで 1,198m(昭和7年8月31日竣工) 及びルベシベツからタニイソまで 3,735m(昭和9年7月15日竣工)
最後にタニイソから日勝国境までの1,878mも直営工事で着工。

ピンナイ付近 ルベシベツ覆道からほしば覆道にかけて

この最期の工事で事故が発生。
この一帯は、チカツプウシ・トモツクシ・ピンナイなど、かつて近藤重蔵を足止めさせ、山道の開削を余儀なくさせた難所中の難所。
ダイナマイトを使い硬い岩盤を爆破して九箇所の隧道を掘削していましたが、昭和9年3月14日爆破の振動が大雪崩を誘発。工事小屋を押しつぶし、20人もの痛ましい犠牲を出してしまいました。

7年半の歳月、尊い犠牲、そして多額の資金を使い黄金道路は、全通。
でもこの道の本当の名は「黄金道路」ではなく『日勝国道』が正式な名前なのです。

北海タイムス記事

日勝国道の竣工にあたり、当時の帯広土木現事務所長は、

『先般来、各地方の新聞に黄金道路と名付けられているが、これは道路の全通によって国益を増進するという意味か? はたまた莫大な工費を投じたるがゆえか…。いずれにせよ皆様の自由判断にお任せするとして、今後は日勝道路と称して頂きたい』 と話している。

ここで謎は、工事に関して報道は、開通よりも相当前から『黄金道路』の名を使っていたということです。

岩山の真下に続く覆道

 

黄金伝説の始まり

 当時のお金で94万円もの巨費を投じて完成した日勝国道。工法、規模的には現在と圧倒的に差はありますが、現在の貨幣価値にすると約60億円のお金になるといいます。でもこの額が「黄金」の名に値するほどの高額なのか?という気がしてきます。
現在技術で通されたタニイソやえりも黄金トンネル1本でもその額は優に超えているのではないだろうか…。

黄金道路全線を見ると1尺(30.3㎝)当たり8円45銭。当時の帯広の道では10円40銭で、室蘭では6円77銭となっていた。この程度の差では『黄金を敷き詰めたような道』とは信じ難い。
しかし、これを工区ごと、特に難所の集中した広尾側で比較すると、第三工区が5円16銭に対して第二工区は、なんと28円52銭に達している

このことに関し昭和55年発行の『新広尾町史』から引用すると

広尾側道路延長は16,392.32m。工費は56,275円75銭。広尾側だけで見ると1mあたり34円を超える金額である。中でも第六工区のタニイソ・日勝国境間は1mあたり44円55銭。ルベシベ・タニイソ間は48円82銭に達する。工事の困難さが思いやられるであろう。
庶野までの全行程を含めると1m当たり28円。しかし、第六工区のように44円・48円の区間があったのであるから『黄金』の名は広尾側にふさわしいであろう。

しかし、『黄金』の名は第四工区の音調津までが完成した時点から呼ばれていたという。
そうだとすると金のかかった第六工区よりも前に『黄金道路』と呼ばせる実態があったことになるのです。
黄金道路工夫として従事した元開発技官の談話の記録によると

第二工区フンベと美幌の間、昭和3年9月5日竣工のうち、特に現在のフンベの滝出先隧道より保志さんの滝の間の箇所が難所中の難所で、札を積んだくらい金を要したところから、黄金道路という異名が誰とはなしに付けられた記憶がある。
当時も検定にあと3日という時、突然崖崩れとなり、完成間近い道路の石垣を破壊し、土砂は放出されて再工事ということがあった─

最も資金を費やした第二工区付近

第一工区1m当たり工費26円70銭。これでも大金だと思うのに第二では94円13銭。第一の3・5倍強。第六工区どころではなかったのです。
黄金道路の名は、まさに第二工区から生まれたことになります。
総工費94万円余は、黄金道路と同じく昭和9年オープンした札幌グランドホテルの総工費80万円を越えるほどであったそうですが、これが高いのか安いのかは別として国は重要路線として位置づけし、全通を見ることなく逝去された干場定五郎氏の説得がこの大事業を成し遂げるための礎になったことには間違いはありません。

もともと揶揄で名を付けられた黄金道路は1934(昭和9)年10月31日全路程が完成。この全工事過程を総括した数字は、道路全通記念碑に記されています。

地方費道帯広浦河線広尾庶野改良工事之概要

総工費 九拾四万五千五百参円
総延長 参拾参粁五百弐拾九米

内訳
道路延長   参拾弐粁四百九拾七米
橋梁延長   五百七拾参米 弐拾弐箇所
隧道延長   四百五拾九米 拾七箇所
防波堤延長 六千参百四拾六米 弐拾五箇所

着   手  昭和二年五月八日
竣   工  昭和九年十月三十一日

右帯広室蘭両土木事務所ニ於テ施工ス

                   北海道庁

 昭和9年11月3日連絡道路開通式ならびに慰霊祭が日勝国境の猿留橋において挙行されました。(猿留は、現在のえりも町目黒)
工夫の中には、周旋屋に騙されて現場に入り、過酷な労働や私的制裁を強要された「タコ」と呼ばれた人たちもおり、各工区には150人ほど配置されていたという。
1日の作業はモッコ背負い(ふたり一組で土砂を入れた袋に棒を通して前後からかついで運ぶ)が700回と人間扱いされていないかのごとくであった。
黄金道路の現場での強い仕置きは、漁民も多い狭い海岸であることから表立って行われることはなかったそうですが実際はどうだったのでしょう。人を退けてきた海岸の道は逃亡を試みる人にとっても難所には違いなかったと思えます。
強烈な威圧感をもって立ちはだかる岩盤の壁。その下で荒ぶる波を目の当たりにしながら人を寄せ付けぬ難所に道を通したのは、人の血と汗の努力に他ならなかったのです。

 

黄金道路は完成したが…

黄金道路は完成するが… 念願の道は完成したものの戦時下は維持も満足にされない状況で、打ちつける波による道の損傷や、岩盤の崩落などで半ば放置されたような状態にされていましたが、戦後に修復が開始され、1953(昭和28)年、二級国道236号帯広浦河線に指定。さらに法律面で道路整備の環境が整ったことから1960(昭和35)年から大規模に改修工事がはじまります。

1986(昭和61)年、全線舗装化、橋梁5箇所、トンネル6箇所、覆道15箇所を設けて新しい黄金道路へと変わります。
大規模改修で観光面の期待が高まりましたが、一方で護岸工事や波消しブロックの投入により沿岸の昆布の養成が悪くなり、品質に影響がでてきました。
この被害により庶野漁協は政府から7000万円の損害補償を受けたこともあります。

 公共事業の先細りの不安も囁かれましたが、その後も黄金道路の改良は進み、2005年に2,020mの大長タニイソトンネルが開通。海岸線を沿うというよりも半分海の中の様で、波しぶきが路上まで跳ね上がり、カーブを伴う覆道の連続であった道は、トンネルにより大きくショートカットされて、一部の復旧工事中の区間を除いて完全2車線の快走路になりました。

第二次改良時の新聞記事 そして平成9年、開通した天馬街道に国道236号の名を譲り、黄金道路は国道336号の一部となっています。
元々、黄金道路は観光が目的の道ではなく、生活道路としての位置付けが主だったため、荒天時のゲートの封鎖はギリギリまで待っていたらしいのですが、天馬街道開通により、十勝─日高間の迂回アクセスが確保されたこともあり、通行止めされる回数は、以前よりも多くなったようです。 

 荒天による通行止めは道内の国道でも最多で、過去およそ10年間の記録(平成18年調べによる)での10年間の通行止回数は112回に及びます。改良を重ねた道でも夏冬を通じ天侯の影響は避けられない。

 2004(平成16)年1月、開削中の宇遠別トンネル(3,215m 平成12年着工・平成21年開通)の海側を通る旧道、(当時は現役道)宇遠別第一覆道と厚生トンネルの付近で高さ50m、幅60mの大きな岩盤崩落が起こり、室蘭開発建設部の職員が犠牲となりました。
 この時、宇遠別トンネルは貫通していたものの覆工などの工事は進んでおらず、迂回路として通行は緊急車両に限定されました。
 2011年、北海道最長のえりも黄金トンネル(4,941m)が誕生。このトンネルは、既に開通していた宇遠別トンネル内に新たに分岐点を作り、仮称「第二宇遠別トンネル(1,927m)」と接続させて1本のトンネルにした工事です。
2010(平成22)年12月、暴風雨による高波を受けてオンコの沢第一覆道の路面に大きな陥没が発生。当時第二宇遠別トンネルは貫通を果たしていました。この時も宇遠別トンネル開削時と同じように緊急車両とスクールバスに限り、工事中のトンネルを迂回路として通らせる対策が取られます。
 一般車両は、5分で通り抜けられる道を迂回して40分かかる林道へ回されていたことから暮らしにも支障が出てきたため、数か月後、バス及び一般の許可車両。翌年2011(平成23)年1月17日から全ての一般車両の通行が可能となりました。(正式な開通は2月2日)
宇遠別トンネルでの対応が、この時の事故にも生かされたというべきでしょう。
こうして難所に通された道は、安全面の改良が進み、また一歩安全に、快適に通行できる国道へと変わりました。

タニイソトンネルと旧道黄金トンネル

 

歴史的・文化的・産業遺産的な道 

旧フンコツトンネル 黄金道路を走ってみると、トンネルの入口付近、あるいは覆道の途中に待避所のようなところが設けられているのが目に入ります。時おり、そこからウインチを付けた軽トラックなど出入りする車両があります。それらは船着き場や漁場を辿る出入口に使われているのでドライブ中は海に気をとられたり、飛ばしすぎることがないよう用心しなければなりません。また、新道・新トンネルの開通により役目を終えたトンネルが封鎖されずに残されていたりしているのも漁場へ降りる道が先にある場合がほとんどです。
そういったところは、付近を漁場にしている漁師の管理により進入禁止のロープが張られています。
岩場には岩盤に寄り添う小さな小屋が建っていたり、岩場の間に小さな船着場があり、旧道は無用の道になってしまったのではなく、現在も人々の暮らしとともに歩んでいる道なのです。

岬トンネル地域の産業・暮らしに沿って計画された道、数年経つとどこか変わってしまう道。
それは、この黄金道路が「生きている道であり、これからも行き続ける道」であることにほかないからでしょう。
ほら、人も人生の節目には、いろいろとお金が必要になるではありませんか。(いつもお金がかかりますが…)

本来の黄金道路らしい光景・かつての名所は、こうしてショートカットされた部分でこそ見ることができるのですが、現在の車窓からは、それが伺いにくくなってしまったことは、非常に残念なことだと思います。

 それでも車を停められる場所から海岸線を望んでいると朽ちかけた道やトンネルの跡が遺跡のように点在する不思議な光景が目の当たりにできます。
旅行やドライブは、大抵の場合目的地があるものですが、道そのものを楽しむことも旅の醍醐味。
帯広から出発して黄金道路から、えりも・様似・浦河を経由して天馬街道から戻るコースは日帰りで楽しめるのでお勧めです。

今回の画像は、海岸の旧道を撮りながらですが、朝9時に出発、12時間程度で戻ることができました。

フンベ海岸のサーファーたち

また、「フンベ海岸」付近は、北海道有数のサーフインのメッカと言われ、年間を通し道内外各地から波を求めサーファーが集まっています。付近は路肩両側に駐車車両が並ぶので通行の際はご注意ください。

※旧道付近は、場所により岩盤崩落や海岸線侵食によって崩落しかかった箇所があります。かつて交通の難所であったように現在も海の様子に関わらず高い波が岩場の間を乗り上げてくることもあります。維持管理されている場所ではないので、必要以上に踏み入って事故に巻き込まれないようご注意ください。
また、漁民の仕事の場でもあることですから、漁場の入口付近に不本意に駐車することは無いようお願いします。

庶路側の碑

 

参考 「新広尾町史 第二巻」 広尾町史編さん委員会 昭和55年3月30日発行
    「雑学・黄金道路物語」 三浦宏著 帯広図書館にてコピー合本のため出版社及び出版年度不明
                          文中新聞記事も同書から引用。

 

「とんとん」での黄金道路の紹介・口コミは→ こちら
黄金道路の由来となった第二工区にある滝「フンベの滝」は→ こちら
広尾の大丸山森林公園にはサンタの家があり、サンタグッズがいっぱい!→ こちら
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