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小さな国語塾のつぶやき

「匙加減」

新中一生は入学早々に学力テストを実施する学校と実施しない学校がある。学力テストがある場合、小学校のテストとは全く形式などが違うことに戸惑う場合が多い。初見の文章、問題数が多く時間配分が難しい、長い記述が出るなど、つまり難易度が高いのだ。それゆえに平均点自体が下がるので自分の点数が小学生時代よりも低いからと言って大きなショックを受ける必要はないけれど・・・。さて、昨日の授業で新中一生が学力テストの問題と解答を見せてくれた。惜しいケアレスミスはあったものの申し分ない高得点で、ホッとした。彼は学習意欲が高く、勉強が得意で国語塾に入る前から自主的に難易度の高いテキストを学習していたタイプ。そういうことを考慮し、新年度が始まる前から難度が高いテキスト演習を実施したところ「このテスト簡単に思えた~。」とのこと。日頃は難易度が高いテキストを前に「これ難しいから解説と解答を見て解きました・・・・。」と残念そうに言うこともあるけれど、そうやって日頃から厳しい?!トレーニングを積んでいるおかげだと内心ニヤリ。むろん彼にも「そうそう、このテキストで鍛えていると中学校で行われるテストは基本的に楽勝。難関私立でも対応可能の力がつくよ。」と日頃から伝えており、それが間違っていなかったと嬉しかったのだ。「匙加減(さじかげん)」が間違っていなかった?と自負している。「匙加減」とは【 さじに物を盛る加減。特に、薬を調合するときの分量の加減。 料理の味つけの程度・ぐあい。「ちょうどよい 匙加減 」 手加減。手ごころ。「上役の 匙加減 ひとつでどうにでもなる」「 匙加減 を誤る」】(「デジタル大辞泉」より引用)。同じ学年だからと言って皆が同じレベルではないため個々のレベルに合った勉強法が必要になる。学校や塾ではクラス分けされていることもあるけれど、それでもうまくフィットしないことも。そんな状態の時に出番となるのが家庭教師や個別指導で、指導者の手腕が試される。国語教室では特に新年度になる際には毎年、個々人に合ったレベル、内容のテキストを!とあれやこれやと複数の教材を選び、たとえ同じ学年は同じテキスト…の場合でもAさんにはこの問題を解かせるけれど、Bさんには解かせない(自主的に解くのはむろん大歓迎)といった具合に調整している。

2018/04/19 13:07

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類義語は難しい

「類義語」は本当に難しい!!!「類義語」とは「一言語体系の語彙のなかで,互いによく似た意味をもつ2つ以上の単語同義語同意語とも呼ばれるが,「ねじる」と「ひねる」のように用いられる文脈が違うので (「スイッチをねじる」は不可) 実際には意味が違うといわざるをえないものや,「食べる」と「食う」のように文体的差があるものや,「タレント」と「芸人」のように情意的語感の異なるものなどが多く,完全に入替えのきく同意語というものはまれである。類義語の成立には外来語が大きな役割を果し,日本語では漢語と和語,英語ではアングロ・サクソン系の単語とフランス語系の単語で対をなしているものが多い (「旅」と「旅行」,freedomと libertyなど) 。 出典 (ブリタニカ国際百科事典)」(引用終わり)

上記のように、母国語だからこそ何となくニュアンスで理解できる…という言葉もあるけれど、これが母国語以外だったら・・・自分は絶対にお手上げ!結局はちょっとしたニュアンスを理解するためには、その土地や国の文化に慣れることがベスト。教室や自分自身で学ぶときは手ぶり身振り、イラストなどなどが一番手っ取り早いのかなあと、いつか、いつか・・・自分が外国語を学ぶときにの近道を想像中。さて、区別が難しい同義語は難しい反面、便利な面もある。先日、某生徒が与えられたテーマとは少々ずれている文章を書いていた。完全に外れているわけではないのだけれど微妙にずれている内容。最初は「この部分が、聞かれていることの答えにはなっておらず・・・」と口で説明していたのだが、生徒はポカーンとしている。どうしたものか?と思案していると目の前の鉛筆立てが目に入った。そこから①ハサミ②蛍光ペン③ボールペンの三種を取り出し、生徒に①ハサミと②蛍光ペンは見た目、用途が全く違うよね?と確認。その後②蛍光ペンと③ボールペンを目の前に置き、②③ともに「筆記具」という点は同じだけれど、微妙に使い方が違うことを確認。その後、②③の微妙な違いを言葉で説明させ、その微妙な違いと同じレベルのことが目の前の文章でも同様だと説明すると、なーんとなくではあったけれど自分が書いた文章が少しズレていることを実感できたようだ。類義語、類似品は難しい、難しいからこそ、それを逆手にとって具体例に用いるのもありか?!と思った出来事。

2018/04/18 15:13

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難解語「拮抗(きっこう)」

【 <央調査報  >  「日本語大切」増加も、慣用句の誤用多く―文化庁の「国語に関する世論調査」結果から―

4.ら抜き言葉についての意識
 「来ることができる」という意味で、「来られる」という言い方ではなく、「来れる」を使うことについて、言葉の「乱れ」だと思うか、「多様性」だと思うか、それとも「変化」だと思うかを尋ねた。「「言葉の乱れ」だと思う」は23.7%、「「来られる」でも「来れる」でも構わないと思う」は26.9%、「「言葉の乱れ」ではなく、「言葉の変化」だと思う」は41.0%となっている。「変化」だと思う割合が4割強と最も高かった。平成13年度に行った調査結果と比較すると、「「変化」だと思う」が9ポイント増加したのに対し、「「多様性」だと思う」は6ポイント減少している。これまで、「乱れ」「多様性」「変化」がほぼ拮抗(☜陰陽師が赤で表示)していたが、「変化」だと捉えるのが優勢となり、ら抜き言葉が定着しつつあることをうかがわせる。】(一般社団法人 中央調査者HPより引用)。

この記事を読んだときに、記事内容はもちろんのこと「拮抗」という言葉に対して反応した。「拮抗(きっこう)」とは勢力などがほぼ同等のもの同士が互いに張り合って優劣のないこと、という意味だが普段はあまり使わない言葉・・・。報告書や新聞といったいわゆる「堅い」「正式」な文章中によく使われる。が、が、が、そもそもこの漢字を読める人が一体どのぐらいいるのか?さらには意味が分かる人がどれぐらいいるのか?と言いたくなったのだ。読者としては、難しい言葉についての知識を得たと思ったら最後の最後で「??」という言葉に出くわして戸惑うことにならないか?と、なんだか矛盾したような気分になるのだ。せめて「注釈 拮抗とは。。。」という解説を入れてほしいものだ。かれこれ何十年か前、張り切って塾や学校の先生に質問に行ったところ余計に迷路にはまったという経験から(☜「ますます訳分からなくなりました」と言う勇気がなかった。なぜなら「悪いのは自分の頭!」という自覚はあるのだけれど、先のセリフを言うと先生が気を悪くすると申し訳なかったので。)指導者も上記のことは気を付けなくてはいけないと意識している。ある事柄を説明する際に「自分だけ分かっている言葉」を使うと、説明するどころかますます物事を難解にしてしまうことも。日々勉強!

2018/04/17 22:39

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信じる心

「徒然草」第六十八段に次のような話がある。【筑紫(九州北部)に、なにがしの押領使という者がいたが、土大根をよろずにすぐれている薬といって長年、朝ごとに二つずつ焼いて食べていた。ある時、押領使の館の内の人が出払っている隙をはかって敵が襲って来た。その時、館の内に兵が二人出で来て命を惜しまず戦って敵を皆、追い返した。押領使はとても不思議に思って「日ごろ、ここにおられない人のように見受けられますが、いかなる方ですか」と質問した。その兵は「あなたが長年頼って毎朝召し上がっていた土大根でござる」と言って去っていった。深く信じていたからこそ、このような徳もあったのだろう】。また、「沙石集」には「藤のこぶ」という話が載っている。内容は【ある在家の人が山寺の僧を信じて、あらゆることを深く頼りにしていた。病気にでもなれば、薬なども何を服したらよいか尋ねていた。すると、この山寺の和尚は、医道の心得もないのに、すべての病に「藤のこぶを煎(せん)じて飲めば治る」と教えていた。在家の人がこれを信じて用いると、すべての病が癒(い)えぬということがなかった(病が癒えた)。ある時、馬を失ったので「どうしたら見つかりますか」と尋ねると、例の「藤のこぶを煎じて飲みなさい」と言うのであった。僧の話は納得できなかったが何か理由のあることであろうと信じ、藤のこぶを探した。しかし、あまりに取り尽くして近い所にはなかったので、少し遠い所の山のふもとを探し求めるうちに谷の辺りで、いなくなった馬を見つけた。これも僧を信じたおかげである。】個人的にこの二つの話が好きだ。むろん日常生活においては、一つの物事・人の言動のみを「盲信」することは怖いと思っているし、逆に他人様から盲信されるのも怖い。☜責任重大と言うか、そもそもがそんなにも盲信されるような立派な人間ではないという自覚があるから。では、なぜこの二つの話が好きか?その理由は「純粋に一つのことを信じる姿勢」と「正しい(であろう)ことを信じて精進(?)すると道が開ける」と思える、という2点から。とはいえ、「信じる」ことが出来る物や人ってなかなか見つからないし、見極めが難しい。でも最近こう思うのだ。「自分自身を信じることが出来るといいなああ~」と。どんなことがあっても「自分ならば大丈夫」と信じることが出来るようになったら本当の意味で「怖いものなし」かと。

2018/04/16 23:33

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「くさめ」「まじない」

鎌倉時代に吉田兼好が著した「徒然草 第四十七段」に「くしゃみ」についての興味深い話が載っている。【現代語訳  ある人が清水寺に、お詣りに出かけた。一緒についてきた年寄りの尼さんが道すがら「くさめ、くさめ」と言い続けてやめない。「婆さんや、何をそんなにのたまわっているのだ」と尋ねても、老いた尼さんは返事もせず気がふれたままだ。しつこく尋ねられると、老いた尼さんも逆上して「ええい、うるさい。答えるのも面倒くさい。くしゃみをしたときに、このまじないをしなければ死んでしまうと言うではないか。あたしが世話した坊ちゃまは賢くて、比叡山で勉強しているんだ。坊ちゃまが今くしゃみをしたかも知れないと思うと気が気でないから、こうやってまじないをしているのだ」と言った。殊勝なまでの心入れをする変人がいたもんだ。】古代の信仰では、くしゃみをする瞬間は体から魂が飛び出てしまい、体が空になったその瞬間を狙って悪霊が体に入り込むと考えられていたのだ。そこで、くしゃみをすると魔除けの言葉として「くさめ」と罵りの言葉を唱えていたんだとか。その名残として江戸時代には既にくしゃみの後は「こん畜生!」とか「くそ喰らえ!」などと唱えていたそうだ。花粉が飛び交う春先は鼻水・くしゃみは定番・・・。毎回くしゃみをするたびにおまじないを唱えるのはかなり忙しい?!と思わなくはないけれど、おまじないを唱えることによって気持ちが安定するならば霊験あらたかと言えるか。さて、徒然草の話の中で婆さんが唱えている「くさめ」というおまじないの語源には、3つの説がある。①陰陽道の「休息万命(くそくまんみょう)」を短縮したもの②「糞喰らえ」を意味する③「糞食め(くそはめ)」が変化したもの。個人的には①の説を支持したい・・・。字の意味が気に入っているから。ところで「まじない」という言葉そのものはなんとなく胡散臭い?と感じる人もいるかもしれないが、自分自身は「まじない」≒「元気になる」「リセットする」ための言葉だととらえている。くしゃみをした後に「くさめ」「こん畜生」「くそ喰らえ」とつぶやく習慣はもっていないけれど、つい「最悪・・・」「もう嫌だ・・・」「もうダメだ」という言葉を発してしまった後は即座に「いや、大丈夫大丈夫」「絶対に大丈夫」と呟くようにしている。周囲からすると怪しい?かもしれないが少なくとも他人を傷つける行為・言葉ではないのでいいかなあと。

2018/04/14 05:03

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「あいまいさ」を判断する力

「先生!区別と差別の違いって分かりますか?」と突然にS君が切り出した。一瞬ひるみつつも「うーん、はっきりとした線引きは出来ないとは思うけれど敢えて言うならば、単に分けるだけなのが区別で『上から目線』『悪意』がこもっている方が差別かなあ?」と答えた。今年の夏休みの課題である「意見文」のテーマを早々に考え始めたS君。今年のテーマは「区別と差別の違い」と決め、昨日からメモ書きを始めた。早速、ネットで言葉の意味などS君と一緒に調べたところ「差別」の方は「他よりも不当に低く取り扱うこと」とあり「成程~」と、とりあえずお互いに納得した。が、が、が、「不当」という定義がこれまた厄介で、どの程度からが「不当」となるのか個々人で感覚が違う。実際にS君が学校の先生に「先生!ひどいです、それは差別です!」と訴えたところ「違う、これは差別ではなくて区別だ」と言い返されたそうだ。つまりは一方が「不当」☞「差別」と感じても他方が「区別」だと認識することが少なくない。互いに判断基準が違うため、互いに理解しあうことは難しい。さらにS君が「僕は辞書で『言い訳』と『理由』について調べたら完全に同じ定義として扱われていました。理由を言ったとしても下手すると相手から『言い訳するな』って言われるってことですよね。」と続けた。流石にうーんとうなってしまったものの、これらのちょっとしたニュアンスや感覚の相違は昨日のブログで紹介した「会話」についても当てはまるなあと漠然と考えた。当人は「教えてあげている」「いい話をしている」と思っていても聞く側からすると「自慢話」「興味のない面白くない話」となりうることもあれば、「素晴らしい」「知らなかったことを知ることが出来た」と喜ぶ人もいるわけであって・・・。さらには同じ内容であっても「誰が」話すか、どんなシチュエーションで話すかによって受け取り手の感じ方も違ってくる。結局はこの「あいまいさ」をどう判断するか?少しでも正しい判断力を身に付けることが大切で、それらの力を身に付けるためには、感覚、身体を通して様々な経験を積み、時には失敗を繰り返すことが一番の近道であり重要だ思う。

2018/04/14 04:10

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「会話」は難しい

お互いに盛り上がる「会話」って本当に難しいと思う。ましてや初対面だと・・・・。ブロ友様である大和橘様が昨日(4月12日付)のブログで「私の教養が無さすぎて同席した初対面のかた(60代男性)と会話にならず『もっと勉強していないと人と話せないよ』と、その男性から注意を受けた事がありました。」と書いてらっしゃる。その状況に自分自身がいたわけではないので何とも言えないけれど、ブログからは大和橘様が教養がない・・・などとは全く感じない、むしろ逆・・・たまたま同席した方の興味分野の知識がなかっただけだと推測する。では、教養があれば「会話」が上手か?というと必ずしもそうではない。それが証拠に「教養の塊であろう教授(専門家)の授業・話がつまらなかった。。。。」という経験は少なからずあるだろう。正直言って自分自身にとって「全く興味のないこと、今後もおそらく興味を持たないであろう」ことを延々と相手が話し続け、それに対して必死で相槌を打つことほど退屈なことはない。結局は「会話」とは「言葉のキャッチボール」なのでお互いに相手のことを考えつつ「話題」を選び、一方通行にならないように心掛ける必要がある。と、「会話」の「コツ」なるものを書くとたったの2行で終わってしまうが実際にこれを実行するのは至難の業。だから何十年も「会話術」「コミュニケーション力」的な本が売れ続けるのだ。では少しでも「会話」がうまくいくためには?!と考えた時に、その一つは「オチ」「自分の笑える失敗談」的なことを盛り込むことかと思う。昨日、メンターに今後のことを相談した際「本年度はブログからフェイスブックなどといった他のSNSに移行しようかと思うんですが、いかがでしょうか?」と質問した。すると、フェイスブックの利点などを詳しくおっしゃった後に「そう言いながら、僕は人から色々と誘われても一度もフェイスブックを実行したことがないんですよね~~~。(つまりは、説得力が薄いですよね~~~)。」とポツリ。思わず二人で大笑い。さんざんフェイスブックの利点を述べた後に思い切り落としてくれる、あの話術には思わず脱帽。メンターの魅力は「必ず笑えるオチ」を入れてくれることだと思っている。話を戻し・・・「会話術」なる指導書には素晴らしいことが書いてあるけれど、個人的には「相手を飽きさせないオチ、笑い、いい意味のウラギリ」を入れることが重要だと思っている。

2018/04/13 15:28

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漢字は謎が多い

漢字には「謎」が多いとつくづく感じる。時代と共に表記が変わったり、下手すると点が減ったり・・・はたまた「当て字」がゆえに読めない言葉もあったり。そんな中、若松若水先生が漢字に関する興味深い記事をお書きになっている(4月11に付け「謎」は謎の漢字)。さて、時代ともに表記が変わった例としては「大坂」☞「大坂」がある。自分自身が中学生時代に社会のテストで「大阪」と書くべきところを「大坂」と書いてしまったことがある。自己採点していたときに間違い?!を見つけてしまい大騒ぎしていた所、母が「昔は『大坂』と表記していたし今でも決して間違いではないと判断されると思うよ。」と言って、実際に「大坂」でも正解になってホッとしたことを今でもよく覚えている。☜心の広いK先生!ありがとうございます~と今でも感謝している。確か歴史の時間に「大阪の陣」ではなく「大坂の陣」と習ったような気がするし・・・と思いながら、いつから「大阪」になったのかを調べて見たところ次のようなことが分かった。【江戸時代の後半は、「大阪」と「大坂」が併用されていたのです。ただし、比率からいえば「大坂」の方が圧倒的に多かったようです。それが変化するのは明治維新のときです。明治元(1968)年、といっても正確にいうと元号が明治に変わる前の慶応4年の5月2日、「大阪府」が初めて設置されますが、そのときの公印には「阪」の字が使われてたといいます。しかし、その後も「大阪」と「大坂」が併用される時期は続き、最終的に「大阪」に統一されるのは、明治20年ごろだとされています。】(漢字文化資料館より引用)ちなみに、「坂」から「阪」になった理由は①「坂」を分解すると「土」と「反」に分けられる。これは「土に返る」と読めるので縁起がよくない②「士(さむらい)」が「反する」と読めるので、明治政府が「坂」の字を避けた、といった様々な説があるそうだ。いずれにしても、「坂」という字が原因で改名したらしい。こういった何らかの事情があるから漢字表記が変化するわけだが、若松先生もおっしゃっているように「漢字の変遷・事情」をきちんと分かっている教師や指導者がどれほどいるのか?大手企業の模擬試験などは複数人で採点をするけれど、学校などの場合は一人の先生が採点する。それゆえ意外と採点ミスが多く、そういった事情を意外と生徒は見ているものだ。自省を込めて、日々勉強!

2018/04/12 13:38

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「銀河鉄道の父」

最近、ようやく去年の直木賞受賞作品である「銀河鉄道の父」(門井慶喜著)を読み始めた。読み始めるとついつい止まらなくなってしまうため、なかなか手を出せなかった。まだ読んでいる途中なのだが、やはり「直木賞作品」だなあとつくづく感じる。①視点②表現力③文章力が、ずば抜けているから。☜だからこそ「直木賞作品」なわけだが・・・。作品については次のように紹介されている【宮沢賢治を父政次郎の目から描いた異色の長編小説。読了して胸に去来したのは、「賢治のお父さんて、なんて大変だったことか」という感慨。『銀河鉄道の夜』や「雨ニモマケズ」の詩などで親しんだ賢治、国民作家の賢治が思いもよらない姿をみせる。それはズバリ“困った息子”。その行状のおかしさと、父の愛情の深さをリズムよくつづって一気に読ませる。】(毎日新聞2017年11月26日 デジタル毎日より抜粋)。まず①については、「宮沢賢治」その人についてではなく「宮沢賢治の父」が主人公、父の気持ちや父から見た賢治が描かれておりとっても興味深い。②「賢治は肩をちぢめ、下を向いてしまっている。雨の去るのをただ待つだけの軒下の旅人のように。」(P88)「自己満足が、噴水のように脳ではじけた。」(P89)と、比喩表現をうまく用いた表現が多い。何気に開いたページに、この2点の表現を見つけた。我々、素人が文章を書くとどうしても「ありきたりな」表現になってしまい「賢治は肩をちぢめ、下を向いている。」「自己満足に陥った。」程度だろう。③②のような独特な表現と事実描写とを完璧に書き分けているところは、文章力の高さゆえだと脱帽する。①~③を満たしている小説だからこそ、読者は作品にどっぷりとはまるのだ。映像にはない魅力に取りつかれ各自が想像を膨らませることが可能なのだ。逆に、こういった独特の表現が多用されている小説が国語の問題として用いられると、それが「難問」になってしまうわけだが。つまりは自分が問題を解くときには「やっかい」な表現は、文章を書く時には「素晴らしい・上手な」表現となる(☜むろん、報告書などは除く。「読書感想文」や「思い出作文」など)。「読み取る力」「表現する力」ともに育むことが大切なので国語教室ではテキストを解くことはもちろんのこと、自分らしいオリジナルな表現の練習も行っている。

2018/04/11 18:52

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高い授業料

イギリスの歴史家、トマス・カーライルは次のように言ったという。「経験は最良の教師である。ただし授業料が高すぎる」。まさに名言だなあとつくづく思う。頭で理解する(理解したつもり)と実際に経験したことを比べると、断然に後者の方が自分の身になっている。しかも、身に付いた経験には痛みや苦しみが伴うことが多く、だからこそ「のど元過ぎれば熱さを。。。忘れない!!!」となる。「あの経験があったから」と思えるのはだいぶん時間がたってからだ。この「授業料」というのは実際の「お金」のみならず「時間」「労力」「信頼」などなどを含む。極端な話、授業料が「お金」だけならば「高すぎる」とは言わない、「お金」は回収可能だから。それ以外の「時間」「労力」「信頼」といった回収不可能に近い物が存在するから「授業料が高すぎる」のだ。最近、いろんな職種の方々と話す機会が多く・・・自営業やそれなりの地位を築いた方々は皆、口をそろえて言う。「いろんな失敗があったけれど、高い月謝だったと思うようにしている」「高い月謝を払ったよ」と。さらに・・・「陰陽師先生も本当に本当に修行、勉強(経験)したね!そろそろ次のステップへ行けるね」と。(☜素直にこれらの「お世辞」を鵜呑みにする自分…苦笑)。言い換えると「失敗をしなければ、高い月謝を払わなければ、成功はなかった(しない)かもしれない」。※この場合の「月謝」は比喩的表現であり、厳密にいうと「自己投資?」「損害?」「失敗?」的な意味。ある方もおっしゃっていたが、我々が人様から指導を受けることに対して「お金(月謝)」を払うとは、先日達が費やしたであろう膨大な「時間」「労力」「信頼」を分けてもらうことに対して「お金」を払っているといって過言ではないだろう。机上の勉強もしかりで、結局は「自分で経験」≒「自分で考える」「自分で解いてみる」ことをしない限りは絶対に身に付かない。どんなに素晴らしい指導者から直接指導を受けたとしても結局は「やってみる」のは自分自身。本来ならば「人に教えもてらう」よりも何度も何度も失敗をして試行錯誤して自ら「自分にピッタリ」の方法を見つけることこそが「本物の知識」として身に付く。ただし「本物の知識」を追い求めてばかりでは迫りくる「入試」には間に合わなくなるので、まずは先達やプロから指導を受けてそれらを「自らの物」とするべく努力するのがベスト。

2018/04/10 14:58

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