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小さな国語塾のつぶやき

双方のモチベーション・一体感

「陰陽師先生は本当に凄い人だ、(生徒名)の成績が上がっていること、(生徒名)の意欲!!大切なことを伝えているんだね」と生徒さんのお父様がおっしゃっていたと、生徒さんのお母様からメールをいただき朝からハイテンション!!!こんな風におっしゃっていただけると、実は自分のおかげで成績が上がったというよりも生徒自身の頑張りで成績が上がったり、意欲が出ているだけだと知りつつも嬉しいものだ。正直言って同じテーマ・同じ資料を使って授業をしても、Aという生徒にはそればピッタリだけどBという生徒にはいまいち・・・ということは日常茶飯事。実は生徒さんが成績が上がったり、意欲を保てることは「受講している授業内容が素晴らしい」というよりも、対面授業の場合に関しては指導者と生徒、双方のモチベーションが上がるからだと思う。たとえ陰陽師と名乗ろうとも、すべての生徒に完璧な授業をできるわけではない、そんな呪術は存在しない?!そんなことを思いながら嬉しいメールを何度も何度も読み返している時に遠い記憶がよみがえってきた。自分自身が高校2年生の頃に学校行事として「芸術鑑賞」があった。内容は和太鼓のプロ集団が体育館の舞台で和太鼓を披露して下さるというもの。正直言って、和太鼓演奏と言われてもピンとこないため特に大きな期待も落胆もせず淡々と皆で体育館に向かったところ・・・。出演者がパフォーマンスをしながら舞台に走り出てきて、演奏が始まったその瞬間!まるで雷にでも打たれたかのような衝撃を覚えた。太鼓のドーンという音が冗談抜きで体の内部に浸透し、体全体が震えるような感動を覚えたのだ!そしてその感動が演奏中(時間にすれば1時間ぐらいか)ずっと続き、芸術鑑賞の終了後にクラスメートたち皆「すごかったよなああああ」「感動した」と余韻に浸っていた。それはひとえに演奏者たちのスキル、熱意が素晴らしいからだと信じて疑わなかったのだがHRの時に担任が次のようにおっしゃった。「和太鼓演奏の方々が本当にみんなに感謝してたよ。皆が熱心に聴いてくれたおかげで演奏に熱が入り本当に本当にやりやすかったし楽しかったと」。自分が成長し、さらには今の仕事を始めると和太鼓の演奏者がおっしゃった言葉が腑に落ちる。「授業(舞台)とは生徒と指導者(観客と演者)が一体となって作り上げるんだと。皆に少しでも喜んでもらえるような、そして少しでも意欲を持ってもらえるような授業をしようとますます大張り切り。

2018/03/29 16:57

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「卒業」≒「新しい出会い」

今日は月に一度の楽しみの日!そう、ラジオ出演だった。お題は「春の言葉、卒業」で、スタッフM様共にお互いの卒業の思い出話をしつつ、日本語にまつわる話題で盛り上がった。相手の想いや言葉を引き出すのが本当にお上手なM様(プロだから当然と言えば当然なのだけれど?!)、とっても楽しい時間を過ごすことが出来た。ラジオ中継中に、先日(3月23日付)のブログで紹介した「今と昔」の卒業ソングの違いが話題になった・・・昭和生まれの自分自身は「蛍の光」「仰げば尊し」が定番だったけれど、ぎりぎり昭和生まれ(昭和の後半生まれ)のM様たちの卒業ソングは「天空のラピュタ」の主題歌「きみをのせて」だったそうだ。ということは。。。かなり前から卒業ソングが変遷していた?!確かに歌詞を見てみると「蛍の光」「仰げば尊し」よりも「天空のラピュタ」の方が今の時代にぴったりだと盛り上がった。それは決して昔の唱歌が悪いと言っているのではなく、歌詞が今の時代からは想像がつきづらいから。歌詞そのものは素晴らしいのだけど、例えば「仰げば尊し」の後半に「今こそ分かれめ いざさらば」は交通手段、通信機器が発達していなかった時代だからこそ。昔は「卒業」≒「お別れ」を意味したけれど、今や「卒業」≒「お別れ(下手すると二度と?会えないかも」といった悲壮感は全くない。距離は離れていてもメール、ライン、SNSでいつでもつながることが出来るし、スカイプやZOOMを利用するとリアルに目の前にいるかのように交流ができる。ちなみに・・・M様は4月からは夜の部を担当になるそうで「やるなら今だよ!国語の時間」は卒業なさる。一瞬「え?寂し~」と思ったけれど、極端な話夜の時間にラジオのスイッチを入れると明るくて素敵なM様の声をリアルタイムで聞くことが出来るし、新担当のK様をご紹介いただいた瞬間にM様とのお別れ(?)よりも「\(^_^)/素敵な方と知り合うことが出来た!」という喜びが沸き上がってきた。☜我ながら現金だなあと思うけれど。今や「卒業」≒「お別れ」ではなく「卒業」≒「新しい出会い」と自分の中で変換されつつある。3月は「出会い」よりも「別れ」の方が実感させられるけれど「新しい出会い」に期待して新年度を迎えたいなあと思った出来事。

2018/03/28 21:59

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「センス」

先日、花束をいただき最高に嬉しい!お花は見ているだけで癒されるのはもちろんのこと、いただいた花束がとってもとってもセンスが良かったからだ!一目見た瞬間にセンスの良さに思わずため息をつくと同時に、この花束を作ってくださった方はお花のことを愛してやまないんだなああとつくづく感じた。どの花をどんなふうに組み合わせたらそれぞれが一番輝くか?バランスがいいか?を熟知している方が、きっとワクワクしながら楽しそうに、それでいて真剣に花と向かったんだろうと勝手に想像が膨らんだ。さて、何気に日常的に使っている「センス」という言葉。「センスがいい」「センスがある」と言えば「判断力が優れている」「物の微妙な見極めができる」「感覚が優れている」「細部の違いまで理解できる」のような意味で使われる。逆に「センスがない」と言う場合は「へたくそ」「能力や才能がない」という意味合いが含まれている場合が多い。つまり「センスがいい、悪い」と使うときは何かに取り組む人の能力や感覚をさすことが多い。ちなみにパソコンで「センス 意味」と調べると下記のようにヒットした。(デジタル大辞泉 1 物事の感じや味わいを微妙な点まで悟る働き。感覚。また、それが具体的に表現されたもの。「文学的なセンスがある」)大辞林 第三版 物事の微妙な感じや機微を感じとる能力・判断力。感覚。 「ユーモアの-」 「 -に欠ける」)(引用終わり)辞書的には何か物事を行ったり作ったりする人、本人の感覚と限定はしておらず純粋に「~する感覚」と表記している。つまり、相手の能力を判断したり見極めたりする力も「センス」と考えてもいいと個人的にはとらえている。なぜなら、センスが良い、悪いどちらのタイプの作品、様相であっても、それらを目の前にした時に強いパワーとなって影響を与えるし実際にそれらを感じるから。センスは先天的なものと後天的なもの両方あるだろうが、出来ることならば相手を幸せに、心地よくさせるようなセンスを磨きつつ、そういった素晴らしいセンスの物にどんどん触れていきたいと思う。素晴らしいセンスの物に触れることによって自分自身のセンスも磨かれると思うから。少なくとも相手のセンスの良しあしを感じる感覚(センス)は持ち合わせている自分に自己満足している。また、本当に目の前の仕事、物に対しての「愛情」「熱意」があるとそれが「センス」となって伝わるものだと思った。

2018/03/27 21:52

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「自負」と「悲願」

漢字は表意文字なので、漢字そのものや熟語を見るとおおよその意味が分かるのでとっても便利だが、若かりし頃は勝手に意味を解釈していたこともチラホラ。あるいは「???」ということも。代表的なのが「自負」と「悲願」という熟語。「自負」は本来は「自信と誇りを持つ」という意味だが、若かりし頃は「自負」≒「自分に負ける」≒「自信がない」だと思い込んでいた。そう、恐るべきことに全く真逆の意味でとらえてしまっていたのだ。実は「負」には「まける」の他にも「後ろ盾とする・頼みとする・背負う」という意があり、誰かを頼みとするわけではなく自分自身を頼みとするという意味。つまり「自負」はある種の決意のようなものを意味する熟語なのだ。思わず、紛らわしい字を使わないでよ~と正しい意味を知ったときに憤ったものだけれど、今は思う。「負けたり失敗することを繰り返すことによって自信と言うものが生まれるので、この熟語は意味深長だなあと」。失敗したり負けたりするのは極力避けたいのだけれど、それらがないと成長しないというのも事実。まさに「勝つ」と「負ける」は表裏一体。同様に「悲願」についても若かりし頃は「悲しい願い???どんな願い?分からない」と思っていた。正しい意味は「① どんなことがあってもなしとげようと思う悲壮な願い。 ② 仏・菩薩ぼさつの大慈悲にもとづく誓願。阿弥陀仏の四十八願、薬師如来の十二願などの類。 」(大辞林より)。つまり「悲」は「悲しい」ではなく「悲壮」☞「強い、切実な」願い、「慈悲の願い」というのが本来の意味。これについても今なら分かる。。。厳密にいうと実感できると言ったほうがいいかもしれない。のんきに「~したいなあ。~になるといいなあ。」という軽い願いではなく、心底「こうありたい、こうなってほしい」切実な願いの時は「楽しさ」よりも「悲壮感」の方が強い(少なくとも自分は)。そして何か願いが叶うときは必ずと言っていいほど「周囲の力添えのおかげ」があってこそなのだ。自分一人でどんなに頑張っても頑張ってもたかだか知れている・・・、周囲の「慈悲深い」働きや力添えのおかげとしか言いようがないことばかり。長く生きてきたおかげで「人様に助けていただいているおかげで今の自分がある」と自負している。ちなみに「悲願達成」までにはまだまだ道半ば!頑張ろうっと。

2018/03/26 16:37

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小林秀雄のエッセイ「人形」

小林秀雄の文章と言えば、高校生にとっては「難解」というイメージが強いかもしれない。実際、自分自身の中で、小林秀雄≒難解という図式が長年払拭されずにいる。さて、そんな彼だが決して難しくはない・・・けれど考えさせられるエッセイがある。小林秀雄が昭和三七年(1962年)10月、「朝日新聞」に発表したエッセイ「人形」である。内容は次のような物「大阪行きの急行の食堂車で、私の前の空席に上品な格好をした老夫婦が腰をおろした。細君が取り出したのは、おやと思う程大きな人形だった。背広を着、ネクタイをしめているが、しかし顔の方は垢染みてテラテラしており、眼元もどんより濁っていた。妻ははこばれたスープをまず人形の口元に持って行き、自分の口に入れる。行為の意味はもはや明らかである。列車の食堂車で偶然同席した老婦人は、戦争で一人息子を失い、正気を失った人のようだった。息子の代わりにあてがわれた人形に、ままごと遊びのように食事の世話をしている様子が描かれている。その後、偶然同席した女子学生も一目見て事情を察し理解できることだった」。エッセイの最後は「異様な会食は、極く当り前に、静かに、敢えて言えぱ、和やかに終ったのだが、もし、誰かが、人形について余計な発言でもしたら、どうなったであろうか。私はそんな事を思った。」と結ばれている。この文章を何度読んでも深く考え込んでしまう。相手のことを想像することによって今どんな行動をとるべきかを判断することこそが作者である小林秀雄と女子学生の優しさなのだ。もし、自分自身の目の前でこのような光景が繰り広げられたとしたらどうか?このような行動をとれるか?と聞かれるとはなはだ自信がない。少なくとも相手に対して余計な質問をしたり露骨に怖がる?ような態度はとらないとは思うが(思いたいが)それでも怪訝な表情をしてしまうかもしれない。相手のことを想像することが、相手の立場を考えることであり、それがいい意味での「空気を読む」に繋がるのかなあと思う。どうしても自分を中心に考えてしまいがちなのが人間の性、だからこそふと立ち止まって「名文」「名作」「文学」に触れることによって想像力を養うことが大切だろう。さて、たまたま手にした作品やテキストやテスト、教科書で読んだ作品が難しく感じると、その作品の作者を敬遠してしまいがちで、敬遠されがちの代表すべき人こそが小林秀雄だと思うけれど、小林秀雄の「人形」というエッセイは本当に短くしかも内容が深いのでお勧めである。

2018/03/25 17:42

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行間、空気を読む

先日、「行間を読む」って本当に大切で、国語の基本…さらに言うならば今後生きていくうえで一番大切なことの一つだよなああ、とブロ友であるひさぺー先生のブログ(3月22日付)を読んで納得した。その二日後の中学生授業内での出来事。N君が「この前T君(☜卒塾生)に偶然会ったんです。僕のことを覚えてくれていて嬉しかったです。そういえばA君はどうなったんですか?」と発言。それに対してS君が「Aは〇〇高校と□□高校を受けて、○○高校らしいよ。」と代わりに答えてくれた。その瞬間にM君は事情を理解した(行間を読んだ)けれど素直なN君は思わず「え?〇〇高校と□□高校だったら普通は□□高校に行くんじゃないの?」と発言・・・、すかさずS君が「行間を読んで!僕は『受けた』としか言っていないよ(合否については言っていないよ)」。基本的には行間を読めるN君(むろん国語力もばっちり)「あ、そういうことか(□□高校は残念な結果だった)。分かった。」と言って、この話は終了になった。正直言ってN君からの質問に対してなんと答えればいいのか?個人情報だから・・・とごまかそうかと思っていたところS君のおかげで事なきを得た。(☜有難う!S君)。つまり、話の流れや内容によっては直接的に表現することは避けたいという場面は意外と多い。そのような時に①気の利いた表現ができる②①とは逆に、行間を読むことができる、この2点の力が大切で、これらを保持することは今後生きていくうえで最強の武器になるなあと感じた。彼らはこの2点をきちんと身に付けており本当に将来が楽しみ~~~と個人的に感じている。さらにS君の素晴らしい点が、適度に「空気を読む」ことが上手な点。これは天性の物なのか後天的なものなのかは分からないが、とにもかくも見事なぐらい、ちょうどいい塩梅で空気を読む。空気を読みすぎてお互いがぎこちなくなる…ということも一切ない。ここまで書くと「じゃあ、一体S君ってどんなに秀才なの?」と思われるかもしれない・・・、が、が、が、素質は十分あるのだが時として「やる気スイッチ」が入らないことも(苦笑)。スイッチが入らないといくら素質があっても「うーん、惜しい」ということにも。行間を読む🔁国語力アップ。行間を読む力、国語力アップのどちらが先でもいいので、片方を鍛えるともう一方も伴いやすい・・・ただし両者のパイプをせき止めないようにすることも大切。

2018/03/24 01:35

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「仰げば尊し」「蛍の光」

今日は十勝管内の小学校では卒業式が行われた。今日は6年生の生徒たちが複数、授業を受ける日だったため、卒業式の様子を聞いたり卒業証書を見せてもらい感慨深いものがあった。と同時に今と昔は「卒業式」の様子が全く違うんだなあと改めて感じた。卒業証書授与という基本はもちろん変わらないけれど、今は人気歌手や人気グループの歌を斉唱したりバックグラウンドミュージックとして流されたりするそうだ。ん十年前の卒業式と言えば「仰げば尊し」「蛍の光」を斉唱するのが定番だったけれど今はどの生徒に聞いても「仰げば尊し?ホタルノヒカリ?知りません、聞いたことありません。」とのこと。参考に歌詞を載せておく「仰げば尊し」(歌詞)★「仰げば尊し 我が師の恩 教(おしえ)の庭にも  はや幾年(いくとせ)  思えばいと疾(と)し  この年月(としつき)  今こそ別れめ  いざさらば(一番)  互(たがい)に睦(むつみ)し  日ごろの恩  別(わか)るる後(のち)にも  やよ忘るな  身を立て名をあげ  やよ励めよ  今こそ別れめ  いざさらば(二番)  朝夕 馴(な)れにし  学びの窓  蛍の灯火(ともしび)  積む白雪(しらゆき)  忘るる間(ま)ぞなき  ゆく年月  今こそ別れめ  いざさらば(三番)」★ 「蛍の光」(歌詞)「蛍の光  窓の雪  書読む月日 重ねつつ 何時しか年も すぎの戸を 開けてぞ今朝は 別れ行く」(一番のみ掲載)。個人的にはこの二つの歌、両方…とは言わないまでも片方だけでもいいので復活してほしい気分。なぜなら、この歌を具体例として「定型詩」「蛍雪の功」という故事成語について学習できるから。定型詩とは読んで字のごとく決まったリズムを持った詩の形式で「仰げば尊し」は8・6、「蛍の光」は7・5のリズムになっている。また赤字で書いた部分は中国の故事成語「蛍雪の功」から来ている歌詞。「蛍雪の功」は苦労して勉学に励むという意味で「中国の晋の時代に車胤(しゃいん)と孫康(そんこう)というふたりの若者がいた。二人とも貧しく、夜ともなれば勉強しようにも灯りがない。だから車胤は蛍を集めて蛍の光を灯り代わりにし、孫康のほうは窓辺に寄って降り積もった雪の雪明りを使って勉強した。二人は苦労して勉強した甲斐があって身を立てて出世した」と言う故事から。今や蛍を見つけることが難しい、どんなに貧しくて自宅に電気がつかなくても一歩外に出ると明るい光・・・歌、歌詞共に時代錯誤と言われればそれまでだが、少なくとも「定型」を守る姿勢、苦労して勉強する姿勢は学び、引き継ぎたいものだ。

2018/03/23 22:47

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「撲朔謎離」

「撲朔謎離(ぼくさくめいり)」と言う四字熟語がある。意味は「性別が男か女か見分けがつかないこと。または、ごちゃごちゃと入り組んでいて区別がつきにくいこと。」(「撲朔」は雄の兎が足をばたつかせること。「謎離」は雌の兎が目を細めてぼんやりとしていることで兎の雌雄を見分けることが難しく、それを見分ける方法ということから)。木蘭という女性が父親の代わりに男装して十二年間出征して功績を上げ、故郷に帰ったあとに女性の姿で現われると皆驚いたという中国の故事から。ちなみに木蘭が女性の姿に戻ったとき、とても美人だったと言われている。先日、某ブロガーさんから「陰陽師先生って謎ですね」と言われ思わず「\(^_^)/ヤッター」と嬉しくなると同時に先の四字熟語を思い出した。とはいえ、最近ネタバレ・身バレ的なことばかりしているような気がしなくもなく、少々反省?!基本的にプライベートなこと(例えばお昼ご飯に○○を食べた・・・など)はブログでは書かない、一応「国語ネタ」を書く、読み手に先入観を与えるようなことは書かないというルールを自分の中に決めているので「謎」と言われると「ああ、ルールを守っている証拠」と自己満足に浸っている。これらのルールはあくまでも自分だけに課しているもので、ルールを課す理由は先にも書いたように「先入観を持った状態で判断してほしくない」から。むろん国語教室を主宰しているという事実から「きっとこんな人?」と、いい意味での先入観を持たれるのは当然で、それに関してはとっても有難いと感じる。逆に自分自身が初めての人と接するときはその人の肩書などではなく内面を見て判断したいと常日頃、心がけているつもり。肩書は立派な判断材料にはなるけれど肩書などが素晴らしければ素晴らしいほど冷静さを失ってしまい物事の本質を見ることが出来なくなりそうなので基本的には中身を見ようと常日頃思っており、こちらからは初対面の人に対してあれやこれやと詮索はしない。逆に、初対面にもかかわらず自分のことをアピールしまくるタイプには少々ドン引き・・・。その態度こそがあなたの評価を下げていますと内心でつぶやくことも。さて、年度末・年度初めの時期!「男・女」といった性差に関係なく、素敵な人に出会いたいなあと期待している。

2018/03/22 16:50

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国語教育≒人間教育

考えても分からない問題はある程度の時間で切り上げて、答えを見る☞解説を読み、理解する☞解答を写す☞解法を覚える☞何度も反復するというのはどの科目にも共通する勉強法だろう。最近はこのような勉強法を提唱する人が多いだろうし自分自身もその一人。ん十年前は「自主性」という言葉を勘違いして、ヒントもろくに与えずにただただ「考えろ」「自分で」と言い放ち、長時間にわたって生徒を放置するという指導者もいたけれど(陰陽師が中学時代に通っていた英語教室の指導者がこのタイプだった)。でも、もともと知識のストックがない状態ではどうやって解法を導き出すというのか?ある程度の知識のストックがあってこそ、いろんな知識を組み合わせることが可能になる!と言いたい。とはいえ、答えを見る☞解説を読み、理解する・・・・何度も反復という一連の作業を一人で完璧にするのは難しい。下手すると「考える」ことをせずに安易に答えを見て、分かった気分になって写して終わりと言うことにもなりかねない。その点、指導者がいる場合は「この問題はヒントを伝えれば自力でできる」「この問題は明らかに本人の能力を超えているから解答を示す」といった見極めができるのが利点だろう。さらには来国語の記述に関してはこの方法をとることによって①チンプンカンプンだった論説の「要旨、主題」が分かる②素晴らしい先駆者の思想や考え方に触れることによって自分自身が成長できる、という2点の良いことが加算されると思う。ほかの科目だと「へーっ、そっかあ。そうなんだ」で終わりがちだけれど国語の場合はさらにプラスアルファ先に書いた2点のオプションがあるので個人的に多くの科目の中で「国語」が好きだ。いくら「好き」とはいえ「答えがはっきりしない」ことがあり「難しい~~~」と感じることが多かったのも国語が一番だったけれど。さて、中学生用テキストの中に「広い意味での国語教育がそのまま人間教育でもあった」(阿部昭「エッセーの楽しみ」より)と言う文章があり、この部分を分かりやすく説明せよという問いに対しての答えが「学校教育以外の生活の場で言葉の遣い方を教えることが、同時に人としての在り方を教えることになるから。」だ。この問題に関しては模範解答を生徒に写させたうえで解説を行った。と同時に生徒ともども「本当にそうだよね~~、この作者の言う通りだよね~~~。だから国語って大事なのよね」と思わず受け売り状態(苦笑)で盛り上がった。下手な解説を付け加える必要がなかったというべきか。国語教育≒人間教育と言うことを今後も肝に銘じていこうと改めて思った文章であった。

2018/03/21 21:38

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「空海ーKU-KAI-美しき王妃の謎」

今日は「空海ーKU-KAI-美しき王妃の謎」を観てきた。春休みということもあり中高生らしき姿が目立ったけれど、若い子たちは「空海」ではない映画を観に来ているようでシアターはガラすきだった。結論と言うを「観てよかった!」。原作者である夢枕獏氏の大ファンの自分にとっては楽しくないわけがないという期待はあったのだけれど、期待以上だった。なぜなら詩人、白居易や李白が登場したからだ。特に白居居は「長恨歌」を書くべくして空海と共に謎を解いていくという役割で登場し、李白は大酒飲みであったというエピソードも描かれており本当に興味深かった。「長恨歌(唐代の玄宗皇帝と楊貴妃のエピソードをうたった長編の漢詩)」をはじめとする白居易の漢詩は平安時代以降の日本文学にも多大な影響を与えた。枕草子の中の「高炉峰の雪」のエピソードは白居易の「白氏文集」を勉強していたからこそよ!という気持ちがありありの作品だ。ちなみに「長恨歌」の「恨」は「ひどい仕打ちを受けたので仕返しをしてやろう」という意味ではなく「残念に思う」という意味だ。「思いを伝えきれない恨みがある」や「痛恨の念」(=取り返しが付かないこととして、非常に残念に思う気持ち)というときの「恨」なのだ。ところで白居易は日本では字《あざな:中国で成人男子が実名のほかにつけた名》の「白楽天」で呼ばれることも多いが、白居易は自分を激励するために「楽天」という字《あざな》を名乗ったそうだ。「樂天知命(運命を信じ、今の地位境遇に安んじてあれこれ悩まないこと)」、将来どんな困難に遭おうとも気持ちを落ち着けて慌てず騒がず冷静に処理し、自分のことは棚に上げて他人や周囲のせいにしないことを願ったのである。このあたりのことも当然、夢枕獏氏は調べ上げたうえでのストーリー作りをされたようで、映画内の白居易は「明るくて勉強家」という雰囲気で描かれており、役者さんの雰囲気もぴったりはまっていた。正直言って阿倍仲麻呂がなぜ阿部寛なのか?ということだけが少々腑に落ちなかったけれど。苗字が同じだから、シャレのつもりで起用した?とあほな詮索までしている。何はともあれ、ちょっとした知識があれば思う存分楽しめる内容だと思ったけれど、唐の時代についての知識が全くない状態だと少々退屈?今後、見に行ってみようかなあと思われる方は少しだけ「唐の時代」についての予習することをお勧め。

2018/03/20 17:13

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